春の匂いはわすれたけれど

 

花粉の気配がしていてわずらわしい、
この時期になると、とても好きだったひとと、冬をまとった山の上の公園に行ったこと思い出したりする。
白い息を吐きながら山をのぼるとぐるっとたくさん、枯れた茶色の木があって(今も何の木だか知らないんだけど)、そこでしたいろんな話、大抵は忘れちゃったけど、
「春になったらここ地獄じゃん」「なんでですか」「花粉、やばそうじゃない」って、そんなどうでもいい会話とか、聴いた音楽のことだけぼんやりと覚えている、
自分から下手くそに離れてしまったけれど、そのときは、当たり前に春になってもこの人を追いかけつづけて、くしゃみをする姿を見て笑ったりするんだろうと思ってた、
 
15歳のわたしは、自分の信じる大体のことが、永遠に近くて、壊れにくいものだと思っていたし、自分の疑う大体のことが、脆くて頼りないと思っていた、
ほんとうは、そうでないことだって、たくさんあったのに、ばかだなぁといまは思うよ、
きらいじゃないし、多分、どうやったって、そんときには気づけなかっただろうけど。

 
恋とかだけじゃなくてこれは性分なんだけれど、0か100かじゃないといけないみたいに、極端なところがあって、しかもそれを美徳だと思ってしまっているから質が悪い、
どちらかにぶんと振り切れてしまわないと自由でないような気がしてしまうのはなぜなんだろう、そんなのただ単に理想なだけで、べつに真ん中にいるのが自分なのかもしれないのにな、
それでも、理想を追いかけていないと、意味を無くしてしまうようで、こわかったのかもしれない。
 
みんなたぶん、傾きっぱなしのひとなんていなくってメトロノームみたいにかちかち行ったり来たりしてみたりしてるんだろう、もちろんうつくしいひとも、
だから完璧じゃなくっていとおしいなぁと思うのに、自分だけは完璧じゃなきゃ美しくあれないような気がしてしまう。
どうせ完璧になんかなれないんだけど、追いかけるくらいはゆるしてほしい、ほんとはそんな大層なことでもないんだけど、そのために、生きているような気さえするから。
 
 








生活になるし、だからそのうち詩になります。ありがとうございます。