彼もいつかチューリップをやさしくなでたりする
帰り道に見る、だれかの家の庭の背の低いあかいあかい椿の木と、むらさきいろのチューリップがやけにかわいくていとおしく見えて、いつかわたしも花を育てたり飾ったりしようかしら、と思った、
別に大きな庭じゃなくっていい、アパートの狭いベランダだっていい、赤い花がいいな、そのときには、ひとりなのだろうか、だれかと、いっしょならもっといいのにと思う。
花の一輪にすら無責任でいたかった、ほんの数年前までね、おそろしかったのだ、
太宰治では秋風記がいちばん好きなのだけれど、その一節に、“僕には、花一輪をさえ、ほどよく愛することができません”というものがあって、そういうことかもしれないと思った。
いきている、もの、じょうずに愛することにもじょうずに距離をとることにも自信がなくって、いのちに責任なんかとれないと思っていた、花一輪も、虫のいっぴきにも。
いや、今も自信なんかないんだけどね、ほんとうは何がほしかったのかとか、何がいとおしくて、しあわせで、大事にしたいものなのかとか、そういうのに素直になってしまいたいと思うようになっただけ、すこしは大人になれたのかしら、
それだけでも、しの上で這いつくばってたみたいな日々のこと、無駄じゃなかったかもなぁと思えたりするのだ、別にね、無駄だっていいんだけどね。無駄なものばっかりでも、おだやかであるために必要なら。
わかんないです、なんだかさみしいなあとか、考えたくないこともたくさんあるし、いらいら、っていうかね、もどかしくてかなしくてたまらないことも、こんな状況だしたくさんあるし、
なんかこんなことさ、書こうと思って書き始めたんじゃないんだけど、言葉にしたら凪いでしまったから、そういう、そういうことなのかもしれません。
ベランダの隙間からのぞく赤い花に、一緒に暮らすかもしれないだれかの、ただまちを歩いていてふと目に入っただれかの、あなたの、心が、すこしでも動いてくれたらそんな愛おしい日々はないなぁと思うのです、
そんな気持ちでね、詩だって、言葉だって、いつも必死で紡ごうとしているのかも。
生活になるし、だからそのうち詩になります。ありがとうございます。