生活をとっぱらうためにはちゃんと生活を手に入れなきゃいけないらしい
友達と日本橋のアートアクアリウムに行きました、とんでもなく綺麗だったな、あんなふうに生きていることが誰かや自分に飾られて作品になればいいのになと思っちゃった、彼らの、ほんとうの気持ちはもちろん理解できないのだけど。
わたしが(理想の、最大限の)わたしでいるってことをちゃんと諦められれば、悩まなくてもいいのかもしれないこと、手に入れられるかもしれないしあわせ、大事にできるかもしれないもの、全部、全部と天秤にかけても、それでも自分を生きることの方が信じられないくらい重たくて嫌になったりするのだ、
嫌になる、だけでやめたいわけじゃないんだけどね、結局わたし、自分が幸せになるためにしか生きてないし、それが正しいと思っているよ、ねぇ、そう、君だって、君が幸せになるためにだけ生きて良いんだよって、何回だって言いたい。
誰かのために自分を捨てられなくたって誰かを愛していいし君は愛されるべきだって言われたかった、誰にだよ、ていうかそいつさ、そんなこと言って責任取ってくれるの、例えばずっと愛して愛されてくれるの、
わたしの話す理想のほとんど、現実になったらこんなの嫌だって泣くんだろうなって思ったらさみしいのもかなしいのも大抵が自分で選び取ったもののような気がして(たぶん実際そうだし)つくづく馬鹿で愛おしいなと思ったよ。
べつに魚にはなりたくなかったな、でも犬にはなってみたいと思ってた、好きなひとの飼っている犬、いきてるだけでかわいくていとしい、犬、みたいに。
生活になるし、だからそのうち詩になります。ありがとうございます。