ミルクのかわりの諦観は
いれたままぼんやり他のことをしてしまって、冷めたコーヒーを飲みながらこれを書いています、
ぬるくなったコーヒーとか、ちょっとのびたラーメンとか、部屋着のパーカーのほつれとか、貸したまま返ってこない漫画とか、そういうの、たぶん、あきらめ、ってやつなんだけど、どうだってよくなってしまう性分なのだ、前向き、って言ったほうが聞こえがいいのかもしれないね、でも、これはたしかにあきらめで、わたしはそういう、あきらめ、を、きらいではないし、マイナスのことだなんて、思っていないのだ。
確かにすきだったはずのひと、時間が経てばどうだってよくなって、ほかのひとをすきだと思ってしまえばなおさら、みんなそうやって生きているんだし、そうやってひとりを見つけるのだろうし、
例えばね、わたしのことをすきになってくれたなら、すきだといってくれたなら、今まででいちばんで、だれよりもいちばんであってほしいと思うし、ひとをすきになるときは、いつだってそんな気持ちなんだけど、
そういうの、縁とか運命とか言うのかもしんないけど、ときどきちょっとだけさみしくならない?さみしい、は、うそで、今すきなひとがもしもわたしのことをそういう“あきらめ”の箱に入れて、過去に捨ててしまわれたとしたら、がものすごく怖いなぁって、きっとそれだけの話なんだけど。
16巻より前がまるごと抜けた本棚は、いつか埋まるんだと思う、でもそれは新しく買い揃えたそれや、また違う新しい漫画で、もう、戻ってくることはない、だって、戻ってこなくても別にいいと思ってるから。
短い間の過去の恋は、詩とか、エッセイとか、そういうのにじょうずに書けもしないもんで、もうちょっと、感傷的に処女をうしなえたらよかったとか、もうちょっと、エキセントリックに振り回したり振り回されたりすればよかったとか、そういうことだけ少しだけがっかりして、最低で、最高だなぁと思うのだ、
たしかに、すきだったのにね、
いつだってだれにとっても、過去でなんかありたくない、鮮烈な今でありたい、それは、恋とかじゃなくて、なにもかもにとって、あなたに、あのひとに、あの子に、きみに、きみたちにとってね。
生活になるし、だからそのうち詩になります。ありがとうございます。