死なないために しにたい夜に
洗濯物にひっついていた小さな虫を外に逃がそうと思って開けた窓から見た夕方の空がきれいで、
あぁ、しんでしまおうかな、と思った、なんてことない日。
だって怖くってほんとうはそんなことかけらも考えたくないのに、さみしい、虚しい、遠くにいってしまいたい、違う自分になっちゃいたいって、生まれ変わろうってほどポジティブになれなくてなにもかも面倒くさくって、そんなこと、つぶやいてしまったりする、わたし臆病だから声には出せないので、あたまの、中で。
散文や詩の中での“死”と“し”の間にもわたしの感覚では質量も密度もリズムもなにもかもに大きな隔たりがあるような気がするから、使い分ける(この言葉に限らずなんだけど漢字ひらがなカタカナはみんな印象が違うからたのしい)、日常で“死”を口にするひとやそれが文字になるのをみると一瞬びくっとしてしまうくせに、
失恋しちゃったとかダイエットがうまくいかないとか、海がきれいだとか空がきれいだとか、上手に笑えなかったとか話せなかったとか、無理に笑っちゃったとか嘘ついちゃったとか、ほっといてほしいとか、愛されたいとか、そんなとき、絶対死にたくなんかないのに、しにたい、と、無意識にぼんやり考える。
わたしたちには架空の心臓がいくつもあって、そういうとき、その心臓のうちのいくつかを刺してほしいと思うの、ほんとうの心臓を守るためなんだ、
死なないために、しにたいと思う、自分で刺す勇気もないまま。
生活になるし、だからそのうち詩になります。ありがとうございます。