第一章 - 八つの腎臓の町5
少し横になろうと思っただけなのに、しっかり眠り込んでしまったようだ。窓から差し込む光のまぶしさにアサは目を覚ます。かなり眠ったような感覚があるのに、窓から見える空の色が変わっていない。眠っているうちに一日が過ぎてしまったのだろうか。列車の出発時刻を過ぎていないといいが。
ベッドの上で思い切り伸びをする。その時、窓の外から猫たちの争い合う声が聞こえた。誰かを威嚇するような鳴き方だ。狭い路地の真ん中に向かい合った二人の猫。周りを別の猫たちが囲み始める。向かい合う猫二人のうち、シマ模様の猫が首筋を相手に噛みつかれたようで、首を押さえる手の隙間から血が垂れていた。深い傷ではないが、明らかに相手の猫のほうが大きく強そうだ。
「おい、怪我してるぞ!」
「病院だ、病院に連れてけっ」
周りの猫たちが怪我をしたシマ猫を押さえつけ、病院へ連れて行こうとする。
「やめてっ、平気だから。行きたくないっ」
「近いから心配するな」
「すぐ連れてってやる」
「手足を押さえろ」
怪我した猫は手足と太く毛を逆立てた尻尾を振り回して暴れるが、周りの猫たちに押さえられ、病院の方角へ引っ張られていった。猫は暴れながらずっと叫んでいる。
「やめてっ、離してっ」
喧嘩していたもう一人の猫はその場に残され、しばらく周囲を伺っていたが、窓ごしのアサと目が合うと、すぐに目をそらしてその場から立ち去った。鼓動が早くなり、アサは自分の胸を手で押さえた。連れて行かれた猫は確かに言った。
「実験台にされるのはイヤ」と。
一階に下りるとネズミが入り口近くに立って外を見ていた。先ほどの猫たちの争いを見ていたのだろう。受付カウンターの時計は二時半を指している。あまり時間は経っていないみたいだ。
「連れて行かれた猫さんが気になります。先ほどの病院まで見に行ってきますが、一緒に来てくれませんか?」
ネズミに聞かれてアサは首を振る。
「行っても、何もできないし、分からないから」
どうしてもダメかと聞かれ、アサはもう一度断る。ネズミは分かりました、と答えて黒い帽子をかぶり直し、一人で外に出て行った。
アサは扉についた鈴が揺れるのを見ながら、受付の横に立っていた。
「失礼ですが、本当にお医者さんではなく?」
「わたしは絵描き」
「ご家族か、ご親戚にお医者さんがいるとかでもないですか」
「うーん・・・」
アサは言葉を濁す。
「父は医者だったし、母親も看護師だったけど、うちは小さな町医者だったから」
「なるほど」
主人は温かいミルクを淹れてくると言い、アサに座って待つように促してから、受付の後ろの部屋に下がっていった。アサはソファに浅く座って両手を組み、猫たちの争いを思い出す。噛まれた方の猫、傷をつけられたのは初めてではないだろう。片耳が少し欠けていたし、目の上にも引っかかれたような古傷があった。あの猫は、これまでも何度も町の人たちに傷つけられているのだ。しかし、病院に行くことを拒否している。そしてあのグレーのシマ模様は、レリの模様に似ていた。
主人は温かいミルクの入ったカップを二つ、薄い石の盆に乗せて持ってきた。一つをアサの前に、一つをアサの向かい側のソファの前に置き、自分がそこに座った。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「さっき連れて行かれた猫、うちの姪っこで。レリの妹なんですよ。あ、レリっていうのは、今、近くの病院に入院しているわたしの姪で」
「会いましたよ、さっき病院で」
主人はうなずく。
「レリの母が私の妹なんですね。昨年、亡くなりましたが」
アサはカップを両手で抱えてミルクを飲む。猫が飲むにしては熱い。
「少し、聞いてもらいたい話があるのです。ふつうは会ったばかりの人にこんな話はしないのですが、うちに『案内者』が来たということは、すごく重要なことなので」
案内者というのは、ネズミのことだろうか。それなら話はネズミが戻ってからにしてもらいたいとアサは思った。見知らぬ町で事件に巻き込まれたくはない。
「後で、さっきのネズミさんが戻ってからにしてもらえませんか? わたしはこの町に来たのも初めてだし、すごく疲れているんです」
「長い話にはしませんから」
主人は持ってきたミルクには手をつけず、手を膝の上で組んで話し始めた。
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小説投稿サイト「エブリスタ」で連載中の「夜の案内者」の転載投稿です。
物語のつづきはエブリスタで先に見られます。
▼夜の案内者(エブリスタ)
https://estar.jp/novels/25491597/viewer?page=1
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