ルーマニアの女の子から聞かれた「鶴はきゅうりの代わりになるのか」の話
アーティストプログラムの応募資料の英訳に行き詰まって、私は手帳をもって外に出る。いつもの道から丘をのぼり、シギショアラの町の象徴とも言える時計塔の近くに来た。連日、三十度を超える気温で、暑さの苦手な私は木陰のベンチに座ってひと息つく。下訳の日本語を送ったメールを開きながら、手帳を片手に英訳を進めていく。言い回しの全てにつまずいて、脳がねじれてもだえる。英語で本を読んだり、ハリウッド映画を見たりして英語を覚えていた十代の女の子がいたな。どうしてそんなことができるんだろう。私が十代の時には、どこへ行きたいか聞くことすら難しかったのに。
「コンニチハ!」
という声が聞こえて私は顔を上げる。金髪の小さな男の子が、黒髪の女の子の手を引っ張りながら、私のほうを見ている。ここでは、よく声をかけられるので、私は「こんにちはー」と大きな声で返す。男の子が何か話しかけたそうに、大きな目を向けながら近づいてくるので、私は「ブナズィア(ルーマニア語でこんにちは)」と声をかける。「ブナー」と言いながら、男の子は女の子の顔を見る。私は、ポーチに折り鶴を入れてたのを思い出して、手招きして男の子を呼び寄せる。尾っぽを引っ張ると羽が動く鶴を見て、男の子の目が一段と輝く。女の子は大人びて見えるけど、中学生くらいだろうか。
彼女にも鶴を渡すが、冷めた目で「Nice」だけ返して、右手の中にしまう。男の子が鶴を高く掲げて羽を動かし、彼女のほうに近づけてくるのを、彼女は片手を上げて防ぐ。
「弟さん?」
私がそう聞くと、彼女は「Yes」と答える。感情があふれ出してるような弟と対照的に、彼女の表情は迷子になったように見当たらない。隣に座るように促すと、それでも彼女はおとなしく従って、お礼を言う。「英語話せる?」と聞くと「そんなに上手じゃないけど」と綺麗な英語が返される。
私たちは黙ったまま、隣り合わせで彼女の弟が鶴を飛ばすのを見る。風が木を揺らし、乾いた葉が重なってカチカチした音を立てる。
弟に目線を向けた彼女が何かを口にするけど、風に紛れてよく聞こえない。私が聞き返すと
「あなたに言ったんじゃないけど、何が楽しいのか分かんないって言ったの」
そう言った彼女は顎で軽く弟を指す。彼女の髪はわずかに茶色がかった黒髪。弟の金髪とはずいぶん色が違う。ふーん、と空気を吐いて、私は黙る。会話をしたいわけでもないし、てきとうな言葉も思い浮かばない。
「ねえ、あなた観光?そうは見えないけど」
その質問は非常に答えづらい。観光ではないけど、明確な理由はない。観光客にしては、周りの建物への興味を失い過ぎてる。私は「違うけど」とだけ答える。
「なんとなくいるだけって感じね。いい大人なのに、こんなとこで座ってる意味ってなんかあるの?」
「ないと思うよ、ぜんぜん」
彼女の苛立ちが空気を振るわせて伝わってくるようだった。折り鶴ひとつで楽しそうな弟への苛立ち。よく分からないアジア人が自分の町に来ていることへの苛立ち。ただ、生きていることへの、それ。
「意味ないのに座っててなんか楽しい?」
「楽しくないのに座ってちゃだめ?ここだと違法なの、それ?」
彼女の苛立ちに一瞬の空白ができ、「今回だけは許可するけど」と言う言葉が降ってきて、「ムルツメスク(ルーマニア語でありがとう)」と気持ちのこもらない言葉を押し戻す。
「・・・ねえ、生きてるのって楽しい?私、この先何十年も生きつづけることを考えたら、うんざりするんだけど」
苛立ちが溶岩のように沸いているにも関わらず、彼女は話すのをやめない。聞き取りやすい、滑らかな英語。
「楽しい時もあるし、そうでない時もあるし、だいたいは普通」
そう言うと、彼女は思いもかけず吹くように笑う。
「あなた、ここに住んでるの?外国人に話しかけて、そんな答え方してくるのって、あなたが初めてよ」
「他の人はなんて?」
「うーん、なんかみんな楽しそう。こんな風に旅ができて最高だよ、人生はいいものだ、みたいな感じ」
「へーえ」
「そういう言葉の裏にね、子どもに対して素晴らしい未来を伝えてやろうっていう気持ちが全部見えちゃってるの。私、そういうの嫌いだから」
「好きなこととかあるの?あなた」
「お母さん。・・・でも死んじゃった」
「そう、いつ?」
「もうずいぶん前。五、六年前かな。弟はいるけど、血がつながってない。もうすぐ妹もできる。それも血がつながってない」
弟と彼女の見た目がずいぶん違うと思っていた。年齢も、小さい弟とはかなり離れているようだ。私は、これまでも出会った外国人に話しかけてきたであろう彼女の心情を想像しようとして、やめる。分かりっこない。
「お母さん、最期までぜんぜん幸せそうじゃなかった」
「・・・お母さんのこと、好きなんだね」
私がそう聞くと、彼女は口に力を入れて黙る。好きだった人が幸せじゃないままこの世を去った時、私はこの世界をそれでも好きだと言えるだろうか。
「ああ、そうだ。ちょうど今の時期、日本では亡くなった人をお迎えするイベントをやるんだよ」
「なにそれ?」
「うんとね、きゅうりとナスに棒を刺して、馬と牛にするの。それに乗って亡くなった人の魂が会いに来てくれるんだよ」
お盆のしきたりのことはよく覚えてない。中学生の時に祖母が亡くなって以来、田舎にもあまり帰らなくなった。すごく昔に、甘い果物とカップ酒と一緒に仏壇に並べていたいびつな野菜たちのことを記憶の手元に引っ張り出す。
「野菜に乗ってくるなんて変なの」
「そうだよね」
「なんできゅうりとナス?ズッキーニじゃダメ?」
「分かんない。だけどやるなら今回だけ許可するよ」
彼女は漏れそうになる笑いを口元で噛みしめて抑える。笑ったら負けだって考えてるみたいに。
「魂なんて来たって分かんないし」
「そうだよね、私もそういうの見えないから、分かんない。でも、この世界からなくなってはいないんだなってのは、分かるよ」
「なにそれ」
「だって、分解されても原子は残るわけでしょ。だから、散らばって、この世界のどこかで、別の形になってるんじゃないかなって思ってるよ」
「よく分かんないけど、もう一回やり直せるなら、私、ぜんぶもう一回やり直したい。私じゃないところから全部」
「お母さんのこと、忘れちゃうかもよ?」
「いいよ、だって、最初から知らなかったら、嫌なことなんて起こらないじゃん」
世界のどこかには、死んだ人が「もともといなかった」ことになる場所がある。そういうところでは、「死」という概念が存在しないのかもしれない。
「私は今、アートをやってるんだけどね。私のことを知ってる人が全部いなくなって、私の使ってたものも全部なくなって、それでももし、作品だけがこの世に残ってたら、私はこの世界からいなくはならないんだなぁ、って思った。あなたの言葉を聞いて」
「残ってたいの?私は残りたいなんて思わないけど」
「ぜんぶ最初からやり直した時に、前の自分が残したモノに会えたら、自分はどう思うんだろうなって思って。自分が描いたんだって分かるかな、それとも、関係ないみたいになって、なんとも思わないのかな」
「知らない、そんなの」
弟が彼女の前に折り鶴を持ってくる。羽を動かすのが上手になってきたようだ。彼女は右手を開く。手のひらの中には黄色い折り鶴が横たわっている。
「ねぇ、鳥なら早くない?飛べるんだし。鳥に乗ってこれないの?」
彼女は手のひらを私に見せて言う。いつもはできないけど、今回だけ許可するよ、私は彼女にそう答えた。
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