能登の祭りと人情/能登はやさしや 土までも
11月24日(日)には、中能登町良川の鵜家総本家の"鵜様道中ミュージアム"にて、"鵜様道中茶会"が催される。
その準備のため、道端弘子さん(実家が鵜家総本家)が、ご主人の運転で、ご自宅がある富山市から、約1時間半かけて中能登町までお越しになる。
この茶会には私と黄さんもご招待を受けていて、参列させていただくことになったことで、道端さんは23日(土)9時に宿泊先のみおやの里まで迎えにきてくださった。
鵜様道中とは、七尾市の鵜浦海岸で生け捕りにされた海鵜(鵜様)を、鵜捕部(うとりべ)が2泊3日をかけて氣多大社へ運ぶ「氣多の鵜祭の習俗」の一環である。「氣多の鵜祭の習俗」は、2000年に国指定重要無形民俗文化財に指定された。その鵜様の2日目の宿が、中能登町良川の鵜家総本家である。
何で、海鵜が、鵜に様を付けて”鵜様”と呼ばれるのか。
大昔、邑知潟に毒蛇がおり、村人が困り果てて、大国主命が鵜の手助けによって毒蛇を退治したことが庶民に語り継がれてきた。そんな民話がある。
海鵜のおかげで毒蛇を退治したので"鵜様"なのである。
この習俗は平安時代から続いていると言われている。まさに、"能登の奇祭"である。
私(旧鹿西町)は15歳まで能登に住んでいたが、その当時は隣町(旧鳥屋町)のことでもあり、この祭りのことは知らなかった。
能登半島で地震があり、半世紀振りに中能登町に帰って来て、能登の復興・創生の応援をすることになって、この祭に関わることになった。
道端さんと知り合い、これからも、この祭に関わる多くの人たちとのご縁ができることだろう。
「大才は袖振り合う縁をも生かす」と言う。私も大才になって、この袖振り合うご縁を生かして、大切にして育てていきたい。
OUEN Japan 信念会では、会場にブースを設けて、この能登の奇祭をご来場いただく方々に是非知ってもらいたいと思っている。
茶会は、中能登、七尾、羽咋から多くの人たちがお見えになるのだとか。金沢からもいらっしゃる。いつも100人くらいの方々がご参加され、茶会は何回かに分けて催されるらしい。
茶会の準備をされていらした中に、輪島から避難をされている方がいらした。現在は中能登町で避難されている方だったり、中能登町で避難されていたが今は輪島に帰っていらして、この茶会のお手伝いをされている方もいらした。
元日の地震からまもなく11カ月になる。1年にもなろうとしているのに、まだ遅々として復旧は進んでいない。国や、県・市・町の自治体は、生活レベルにおいて、どこまで末端の悲惨な状況を分かっているのだろうか。
たとえ、分かっていても、寸詰まり、行き止まりの奥能登では致し方ないのか。
能登はやさしや 土までも
能登の人は、「言っても詮無いことだ」と、グッと我慢している。その我慢は不満というのではない。「そんな愚痴を言っても何も解決するものではない。とにかく、前を向いて頑張るしかない」と当たり前のように考えるだけだ。
能登の人は我慢強い。表に出ないで裏にいる。
「表に出るのが金沢、それを支える能登」と言う、ひがみではない能登の優しさなのだろう。特に女性はそうだ。「加賀のかか楽、能登のとと楽」と言われるが、能登は男性が楽して、女性が働く。女性が、何でもないように我慢を我慢と思わず、淡々と働く。
能登の人は保守的だ。敢えて、現状を変えようとしない。よそ者を優しく受け入れるようで、表面的な付き合いをしているだけでは、心の中ではよそ者と思っているところがある(のではないか)。
私は、能登で生まれて15年、能登の土で育ったから、そのことが襞の隙間に染み込んでいるのか、なんとなく実感として分かる。
だから、深く付き合うようになると、その優しさが半端ないものになる。
私も、能登の人にしてみれば今は東京の人だ。能登の人と溶け込んで、ザックバランな付き合いの中で、能登のために尽くしたい。そして、お互い、心底から分かり合える人間関係になっていきたいものだ。
11月下旬の能登は寒い。12月も9日〜20日は能登に帰る予定だが、その時は寒さに耐えることができる完璧な防寒対策をしよう。
夕方、黄さんとコメリに出かけて、雪対策として長靴を買い求めた。ついでに、寒さ対策として、丸坊主の頭に被るニット帽と厚手の靴下も買った。
月に半分、能登に住むと、少しずつ、能登に慣れてくる。本腰を入れて、能登に住むことにしようと思う。長期戦で能登とお付き合いすることにしよう。その真摯な姿勢で以て能登に溶け込むことで、私の二拠点生活は成功するだろう。
焦らず、一歩一歩、着実に、駒を進めよう。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)