初詣に誓う
令和7年は、干支(えと)で言うところの”乙巳(きのと・み)の年”である。
以下の説明にあるように、乙巳の年は、「再生や変化を繰り返しながら柔軟に発展していく」年になるとか。
昨年はふるさと能登が甚大な地震に見舞われ、どん底に突き落とされた1年だった。日本の盲腸とも揶揄される能登ではあるが、過疎地のモデル地区になるべく、雄々しく復活し、創生の道を直走る地方になってもらいたい。そのために、私の最後の人生を懸けて、命が続く限り、能登創生応援を続けていきたいと思う。
これは誰のためでもない。私自身のためである。私の精神の成長のためである。能登のために尽くすことが、私の心を高めることにつながる。素晴らしい人生を全うすることにつながる。
今年は、能登の再生のスタートの年だ。変化を繰り返しながら、発展していく年にしていきたい。
「干支(えと)」というと、ね・うし・とら・う…と動物のことを思い浮かべる方がほとんどかと思いますが、実は干支は「十干(じっかん)」と「十二支(じゅうにし)」を組み合わせたもののことを申します。
今年(2025年・令和7年)は、十干の「乙(きのと)」と十二支の「巳(み)」が組み合わさった「乙巳(きのと・み)」です。
十干十二支は全部で60種類あり、還暦(60歳)は自分が生まれた時の干支に戻ってきたことのお祝いです。
十二支(じゅうにし)は、12種類の動物にその年をなぞらえたものです。
年のほかに、時間や方角を表すのにも使われます。
今年(2025年・令和7年)は十二支でいうところの「巳(み・へび)」年にあたります。
【十二支一覧】
・子(ね):ねずみ
・丑(うし):牛
・寅(とら):虎
・卯(う):うさぎ
・辰(たつ):龍
・巳(み):へび
・午(うま):馬
・未(ひつじ):羊
・申(さる):猿
・酉(とり):鶏
・戌(いぬ):犬
・亥(い):いのしし
十干(じっかん)とは
十干(じっかん)は、もともと中国で一から十までを数えるために使われた言葉で、陰陽五行にも通じる考え方です。
木・火・土・金・水の5つの要素にそれぞれ「陽=兄(え)」と「陰=弟(と)」があり、合わせて10種類あります。
今年(2025年・令和7年)は十干の二番目の「乙(きのと)」の年です。
【十干一覧】
・甲(こう/きのえ)
・乙(おつ/きのと)
・丙(へい/ひのえ)
・丁(てい/ひのと)
・戊(ぼ/つちのえ)
・己(き/つちのと)
・庚(こう/かのえ)
・辛(しん/かのと)
・壬(じん/みずのえ)
・癸(き/みずのと)
2025年は「乙(きのと)」「巳(み)」の年
乙巳(きのとみ)が持つ意味は?
乙(きのと)は、十干の2番目で「木」の要素を持ち、草木がしなやかに伸びる様子や横へと広がっていく意味を持ちます。
また巳(み・へび)は、神様の使いとして大切にされてきた動物で、脱皮を繰り返すことから不老不死のシンボルともされております。
そのため乙巳(きのとみ)の年は、「再生や変化を繰り返しながら柔軟に発展していく」年になると考えられます。
元日の午前は、初詣に氏神様である青山熊野神社を参拝した。毎年お参りしている。明治神宮も自宅から遠くないが、いつもテレビで放映される元日の混雑ぶりを思うと足が向かない。
私は、12月30日にウォーキングがてら、1年最後のお参りを済ませた。1月は5日(日)に初詣をするつもりだ。
[青山熊野神社 御由緒]
当神社は、元和五年徳川頼宣卿の邸内(現在の赤坂御所)に奉斎されていた御宮を町民の請により正保元年正月七日現在地に移遷し、翌年四月本殿拝殿その他造営し完成。青山総鎮守と仰ぎ奉り熊野大権現より神仏分離の令により社号を青山熊野神社と改称された。
青山熊野神社の参拝を済ませ、義父が眠っている四谷の笹寺をお参りした。外苑西通りを徒歩で30分。最寄駅は丸の内線四谷三丁目駅。
[笹寺長善寺の概要]
曹洞宗寺院の長善寺は、四谷山と号します。
笹寺長善寺は、天正3年(1575)甲斐国武田氏の臣高坂弾正昌信の居所に結ばれた草庵を起源とし、四谷付近では最古の寺院の一つだといいます。
二代将軍秀忠が立ち寄った際に笹が繁ったいたことから、笹寺と称するよう命じられ、また一説には当寺の笹が江戸城紅葉山に移植されたとも伝えられ、笹寺として著名だったといいます。
当寺の観音像は赤めのうで造られたもので、二代将軍徳川秀忠の念持仏を、夫人の祟源院より下賜されたものだといいます。
東京三十三観音霊場16番です。
いつもなら、笹寺から青山の自宅まで徒歩で30分、ウォーキングが趣味の私にとっては何でもない距離なのだが、昨日はどうも気が乗らない。ちょっと足がふらふらする。
墓参りを終え、ウォーキングをやめて四谷三丁目駅から地下鉄で外苑前駅まで帰り、1時間ばかり仮眠をした。おかげさまで、頭はすっきりした。
ちょっと寝不足だったようだ。元日は1時前に起きて、事務所でOUEN信念会のためアヒルの水搔きをした。それからblogを書いていた。
朝食を摂って、仮眠をせずに、初詣に出かけたのだ。
もう若くはない。無理をしては、からだが持たない。からだは正直だ。嘘をつかない。心身一如であるから、からだの不調は心でカヴァーできると思うところもあるが、長丁場の能登の応援活動もずっと続けることだし、72歳という歳を考えて、無理はしないことだ。無理はよそうぜ、からだに悪い(「皆の衆」)。あと10年~20年~30年の長丁場であることを決して忘れてはいけない。
東京と能登の2拠点生活を考える。
東京は便利だ。何でもある。自宅は東京のど真ん中の青山。外苑前駅から徒歩1分の何処へ行くにも至便なところだ。事務所は自宅から徒歩2分。毎朝3時に徒歩で事務所に出かける。サラリーマン時代も日本橋本社の銀行に通うのに20分もかからなかったが、今はそれに輪をかけて至便だ。
何せ、早暁3時から仕事ができる。いつでも好きな時に仕事をやめて帰宅することができる。もうやめられない、止まらない。カッパえびせんだ。
それに比べ、能登はその青山の至便さとは比較しようもない。それがまたいいと思って、半世紀ぶりのふるさとと思って、ふるさと能登のために尽くしたいと思うミッションがこれからの生きがいにもなると思っての2拠点生活である。
しかし、未だ落ち着かない。住むところが決まっていないからだろう。不便は不便でいいのだが、10年~20年の長丁場の応援になるので、あまり無理を重ねないでいい不便さであってほしい。
まずは、落ち着く拠点を持つことだ。青山の事務所に行くと、ホッとする。仕事が捗る。能登の拠点もそのようでありたい。3月までには何とかしたいと思う。
16時10分、ラジオを聴きながらパソコンに向かっていた。
輪島市にある日本航空学園能登空港キャンパスで開催されていた能登半島地震の追悼式の中継を聴いた。ラジオを点けたところ、ちょうど遺族を代表して穴水市の小林由紀子さんの言葉が耳に入ってきた。ご主人をなくされ、お店を続けようと思う意欲も失くしていたが、地元の皆さんから多くの励ましを受けて、「何とか頑張って生きていこう」と思ってお店を再開していると、時折声を詰まらせながらお話しになっていらした。
少しずつ、復旧はしてきているがまだまだ道半ば、それ以前だ。
半島と言うハンディもあるだろう。いつまた、地震に見舞われるか不安もあるだろう。それでも人は、能登で生きていかなければならない。
果たして、私は何ができるのだろうか。私が持てる力が一番発揮できることは何だろうか。
今まで培ってきた温かい人脈がある。ふるさと能登への熱い想いもある。
全てを注ぎ込んで、人生最後の社会貢献をしていこう。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)