結婚45周年に想う
昭和51年4月に安田信託銀行に入社した。渋谷支店に配属され、窓口業務を経て個人営業という渋谷支店のテリトリーの個人宅を訪問して取引を開拓するという個人営業の仕事に就いた。
個人営業と言っても、個人の総合コンサルのレベルではない。専ら預金(その当時の信託銀行は貸付信託、金銭信託という預金もどきの商品を買っていただくことだった)をしていただくもので、お客様の金融に関するニーズに総合的に応えるというお客様志向のスタンスではなかった。
融資については、その担当セクションの名は貸付課であり、貸付てやるという上から目線だ。それも対象は圧倒的に法人だった。個人に対する融資はどれだけあったのだろう。
まさに、お客様志向から180度乖離した自己中心的、こちらの都合ばかり。今とは様変わりだったように思う。
これは銀行に限ることではない。今でこそ、ジェンダー平等が叫ばれていて、たとえ心の中では面倒くさいことを言うなと思っていてもそんな素ぶりをしたらセクハラと訴えられる。それじゃ困ると、心に反して、体裁だけ取り繕う。そんな人がまだまだ存在する。パワハラ、カスハラ等々、ハラスメントのオンパレードだ(心底、ハラスメントがない世界になってほしいものだ)。
今日は11月10日。私たち夫婦の結婚記念日だ。昭和54年の今日、入社3年7ヶ月で結婚した。妻は銀行の同期であり、自由が丘支店勤務だった。結婚してから早45年が経つ。
妻は、今では私の母親のような存在になった。この45年間いろいろなことがあった。妻には、「安田信託銀行の社長になるから支えてほしい」とかなんとか言って結婚したのだが、21年勤めて中途退職した。
私なりの想いがあって辞めたのだが、嘘をついたことに変わりはない。
銀行を中途退職してから28年が経った。銀行時代より長くなった。
七転八倒、紆余曲折の四半世紀だったが、今は、その選択に後悔はしていない。そのわけは、銀行時代の21年間よりも、フーテンの寅さんの28年間に培ってできた人たちとのつながりが、2倍も3倍も、もっとそれ以上、私の宝物になっているからだ。
多くのメンターの皆さんから学んだことは、「苦が人をつくる」「苦は楽の種」「順境よし、逆境なをよし」「どん底を経験しなければ心の襞が多く、深い、味のある人間にはならない」「コツコツ、地道に生きることで人格は磨かれる」「人は一人では生きていくことができない。完全無欠な人間は滅多にいない。凡人であるなら、素直な心で自分自身を見つめ、自分の足らずを埋めてくれる信頼できる人たちの力を借りることだ。皆んなの得手を寄せ合って、オールラウンダーになることができる」「友だちの友だちは皆友だち」「類は友を呼ぶ」「仕事は生きていくにおいての万能薬」「生涯現役で生きていくことが、人間の最高の幸せである」「仕事の最中に前のめりになって倒れて、次の世に旅立つ人生を生きていきたい」等々。
こんな想いは、サラリーマンで定年まで勤めていては決して思うことではなかっただろう。
私なりにどん底(人様から見たらそんなことがどん底かと思うだろうが、甘ちゃんだった私にとっては私が陥ったどん底は、結構私にとってショックなことだったのだ。
それが、少しずつ、苦の薄皮が剥がれてきて、今の私がある)を経験して、漸く、"苦のありがたさ"、"苦の効用"を素直に思うようになった。
これまで、自分勝手の好き放題の人生を生きてきて、多くの人たちが支えてくださっているのも、母のような妻の存在があってのことだと、改めて妻に感謝したい。
一人ならずの人たちに言われる。
「小林さんが"世のため人のため"と言って仕事をしているが、奥さんに迷惑をかけ続けて好き放題をしているところがある。それができているのは、寛大な心を持った奥さんがいればこそだ。そろそろ恩返しをしなければ、いくらあと30年生きると思っていても命はいつ何時、どうなるかわからないからね」と。
人生生まれ変わって2歳の私である。皆さんに支えられながら、もうそろそろ、「妻にも喜んでもらえるような人生を生きていこう」と思う。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)