第二生で「応援人生」を完結する
私はいつから、前向きな意味でも、そうでない意味でも、自分のことを「老人」と意識するようになったのだろうと考える。
10年前、人生を一周して、還暦を迎えて、私の新しい人生が始まった。
本来は、還暦の時に人生をリセットして第二生を生きるのだが、未熟者であるがゆえに、その時を10年繰り下げることになってしまって、その始める歳は古稀になってしまった。
それでは、残り僅かと思うが、さにあらず、これからは一層健康に留意して、せいぜい長生きをすることで、天からのミッションを果たすこととしようと思っている。
私が「老人」を意識したのは、以下の3つの年齢の時だ。
①61歳
平成25年1月に初孫が生まれた時、満60歳の還暦を1年2ヶ月過ぎた61歳の歳だ。
体力的にもまだまだこれはと言って「老」を意識する歳ではなかった。しかし、孫が生まれたという事実は、否が応でも「おじいさん」になったことを素直に認めることになった。
②65歳
満65歳になって、日本年金機構から「年金振込通知書」が送付されてきた時だ。加えて、港区から「介護保険被保険者証」が送付されてきた時でもある。
一般的に、15歳以上65歳未満の人口を生産年齢人口という。
平成16年版少子化社会白書においては、生産年齢人口は「社会を担う中核である」とされている。
すなわち、満65歳は、「社会を担う中核から外れた」歳になった、[生産年齢人口]の一員ではなくなったということだ。
65歳は「老人」を強く意識する年齢でもある。
③67〜68歳
OUEN塾リーダーの一人が、「団長は、うちのおじいさんより歳上なんですね。人生の考え方は全くおじいさんとは真逆ですが」と言われた時だ。
私の息子たちがもう少し早く子どもを持っていたなら、このような大学生の孫がいても不思議ではない。
「私は、孫たちと一緒にOUEN塾をしているんだ」と、当たり前のことだが、そのことが、妙に新鮮で、ちょっとショックだった。
④70歳
この時は、完全に「老人」になったと思った。体力の衰えが目に見えて表れてきた。まだまだ元気だが、もう若い者と同次元のところで張り合う歳ではないと思った。
そんな思いもあって、昨年6月に[生前葬&出陣式]を行い、一旦人生をリセットして、戒名という第二生の本名をいただいて、「登り坂」ならぬ「上り坂」の人生を歩いていこうと思ったのだ。
それは、主役ではない「脇役の人生」を生きていくということだ。あくまで主役は、これからの未来を担う若者であり、私は彼らを応援する「脇役の応援団長」だ。
「応援」の本質である「脇役」に徹する生き方をすることだ。
大学時代からずっと「応援人生」を貫こうと思って生きてきたが、漸くそれを貫くことに相応しい環境(自分の思いと周りの環境)になったということだ。
これからが本番の「応援人生」なのだ。
私は70年の人生の前半は結構突っ張って生きてきたように思う。何だかんだと、意気がって生きてきた。
私の十八番の「王将」の坂田三吉や、「人生劇場」吉良常等、義理と人情の『森の石松的生き方』だったような気がする。
勿論、自分の生きざまに、矜持は誰よりもあると思っている。
しかし、それは、思想の違う人たち、邪な心の人たちとぶつかって諍いをしてしまう『森の石松』になってしまってはいけない。
これからは、もっと大人らしい生き方をすることだ。穏やかに生きること、諍い・争いをしないで生きることだ。それは、「できた人間」になることだ。
第二生はそんな穏やかな人生でありたいと思う。
そして今、それが想定外のことであるのか、そうでなく当然至極のことなのか知るすべはないが、私の前に本番の「応援人生」を演ずる"新しいステージ"が用意された。
その舞台で、本来の「応援活動」をして、生きていこうと思っている。
1.その舞台は「世のため、人のため」という大義があるステージ
2.主役である高い志を持った若者たちを支える「脇役」に徹する「黒子の応援人生」を貫くステージ
3.チームのメンバーは、それぞれの役割があり、そのメンバー個々の得手を持ち寄り、それぞれの不得手をカバーし合うこと。
そして、丸い球形のリーダー集団をつくること、その知恵袋になることが私のミッションだ。
4.そして、そのチームは、要らぬ忖度はしないチームであること。自由闊達、和気藹々、お互いが対等な関係のチームであること。
そんな雰囲気や文化を持ったチームをつくっていくことが私のミッションだ。
皆んなは、自分のためは人のため、人のためは自分のため、皆んなが相手を思い遣る「恕の心」を持って生きることをモットーとするチームのメンバーであってほしい。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)