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令和6年の大晦日に思う
今日は令和6年の大晦日。
令和6年(2024年)もあと1日足らずになった。
人生は短い。人生は走馬灯だ。
今年は、元日の能登半島地震で明けた。
9月の能登半島豪雨にも見舞われ、ふるさと能登にとって、今年は惨憺たる1年になった。
私にとっても能登で明け、能登で暮れた1年だった。
"因果応報"、"善因善果"、"悪因悪果"と言う言葉がある。
それでは、能登は何か悪いことをしたからこんな災難に見舞われたのか、因果応報とはそんなことか、お前はそんなとんでもないことを言っているのかと言う人もいるだろう。
いや、そうではない。宇宙があって、地球があって、大自然の中で、大自然のおかげで、大自然に囲まれながら、大自然とともに、我々人間は生かされているのであって、大自然と対して、大自然を征服すると言うような驕り高ぶった心があるから、致し方ないことだが。降りかかってきた災難をそのように思うのだ。
決して、人間は大自然と対等ではない。驕り高ぶってはいけない。大自然と謙虚に向き合うことだ。そう思うことだ。
松下幸之助さんは、「順境よし、逆境なおよし」と仰った。
また、稲盛和夫さんは、「苦は磨き砂」と仰った。
何事も、考えよう、考え方次第で幸せにも不幸せにもなる。
そのベースに謙虚と感謝の心がある。
苦を恨まず、"苦は楽の種"と思うことだ。"無理にでも、苦は楽の種と思う"ことだ。
能登半島地震や能登半島豪雨は、大自然が私たち人間に何かを気づかせようと思って、私たち人間に与えた試練と思うことだ。
傲慢不遜な人間たちに、もっと謙虚に、もっと人に感謝の心を持って生きるようにと思われ、全人類の代表者として、ふるさと能登にその鉄槌を下された。全人類を代表して能登がその鉄槌を受けたと思えば、恨むよりも、これから能登半島が雄々しく立ち上がることで、能登は全人類の代表者、地方創生のリーダーになることができる。
私が大学1年生の時、昭和46年の夏休みに、東大の中国語クラスのクラスメートの有志(10名くらいだったか)が、"能登合宿"と称して中能登町良川の神保家(父の姉の神保の伯母さん宅)に泊まって能登観光をした。
私の家族・親類は、皆んなで彼らを歓待した。同期たちは、実家の3台の自家用車に乗車し、能登を観光し、千里浜海岸で海水浴を楽しんで帰った。
能登半島と言えば、私はまず最初に、松本清張の小説「ゼロの焦点」が思い浮かぶ。志賀町にある能登金剛の「ヤセの断崖」だ。
また、今年の紅白歌合戦では、能登を二人の女性演歌歌手が歌う。
石川さゆりの「能登半島」と、坂本冬美の「能登はいらんかいね」だ。
能登半島のイメージは、里山よりも圧倒的に里海であろう。いわゆる”能登の海岸美”だ。ヤセの断崖がある能登金剛しかり、輪島の曽々木海岸や窓岩、珠洲の狼煙の灯台、能登町の見附島(軍艦島)、七尾の能登島、羽咋の千里浜海岸(なぎさドライブウェイ)等々。海の幸も能登の魅力だ。里山には輪島の白米千枚田があるが、これにしたって海に面している段々畑だ。
私が生まれ育った中能登町と言えば、唯一能登半島で海に面していない自治体であり、私は幼い頃は、「何も売りがない町だ」と思っていた(今年、中能登町に毎月帰ってみて、「あれもある、これもある。私が知らなかっただけだ。物事は、見方・考え方で様変わりする」と、私は何も中能登町のことを分かっていなかったのだと痛感した)。
中能登町は、邑知地溝帯のど真ん中。能登半島では唯一の低の細長い平野のど真ん中にある。いずれも低い山脈だが、南の石動山脈と北の眉丈山脈に挟まれた盆地(車で20分程度走れば、東は七尾湾、西は日本海に出る。その意味では盆地ではない)だ。
邑知地溝帯の低地帯であるので、山ではないが里山であろう。また、広域自治体(七尾市、中能登町、羽咋市)を考えれば、中能登町は、里山であり、里海でもある。
私が能登半島全体の地方創生を目指すのであれば、基礎自治体の壁を超えて、能登半島(石川県の9市町と富山県の氷見市)全体の地方創生アドバイザーを自認して、そのような応援活動をしていくことだ。
それは"能登半島の地方創生の応援"という大事業だ。
これから10〜20〜30年はかかるだろう。長丁場になる。だから、その気概があってこそ、事を成すことができる。
私は、天に、神仏に、感謝している。よくぞこの私に、能登半島の地方創生の応援と言う"大義あるミッション"を与え給うたと。
一層健康に留意して、その大義あるミッションを果たそうと思う。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)