東京と能登の二地域居住を考える
今日(2024.7.29)から31日まで、2泊3日でふるさと能登(中能登町)へ帰る。実家はすでにないが、気持ちは出張ではなく帰省だ。
私の今の生活拠点は東京青山であり、終の住処(死後の住処)は、古稀になり生前葬を執り行い、自宅から徒歩20分ほどの至近にある了聞(南麻布)に求めた。
第二生の住処は青山で、この世を旅立ったのちの第三生の住処は南麻布と思っていた。
地震を介して能登と関わるのことになって、これからの第二生は、東京と能登の二地域居住にしようかと思っている。そして、この世を旅立ったあと、私の骨は南麻布(都市型納骨堂)と中能登の墓の両方に分骨したいと思うようになった。
そのわけは、以下の思いがあってのことだ。
今年の元日に能登半島が地震に見舞われた。私は、遠くない日に中能登にある先祖代々の墓を墓仕舞いして、南麻布に移そうと思っていたところだった。
石川県金沢市出身の詩人であり小説家である室生犀星は、"小景異情(2)"のなかで、ふるさとの金沢への思いを謳っている。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの よしやうらぶれて
異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
この詩に謳われている犀星のふるさと金沢への思いと、私の能登への思いはまったく違うものではあるが、"ふるさと"を思うという点では同じではないかと思う。
いずれにしても、"ふるさと"とは、いつも心の片隅にあって、決して忘れ去ることができない、"忘れがたきふるさと"なのだ。
うさぎ追いし かの山
小鮒釣りし かの川
夢は今も 巡りて
忘れがたき ふるさと
いかにいます 父母
恙(つつがな)きや 友がき
雨に風に つけても
思い出ずる ふるさと
こころざしを 果たして
いつの日にか 帰らん
やまは青き ふるさと
みずは清き ふるさと
地震から2カ月経った3月から、毎月、2泊3日で能登に帰っている。これを出張というにはちょっと違う。社員が業務で出掛ける出張とはまったく違う。
能登は私のふるさとであり、20年以上の長きに亙り離れていた"ふるさと中能登町"のために、私は、「[OUEN Japan]を通して何かできないか」、と思う心が底辺にあるからだ。
平成26年1月に、日本人大学生・来日留学生の応援団として、NPO [OUEN Japan]を設立した。
このNPOは、学生たち(日本人大学生および来日留学生)を応援するNPOだが、究極は、その名の通り、皆んなで"日本を応援(地方創生の応援)したい"との思いで立ち上げたものだ。
それならば、能登半島地震の復旧・復興応援は、延いては能登半島の地方創生応援をすることであり、これからの人口減少社会の日本において、能登を"過疎地のモデル地域"にして、全国に能登を発信していきたいと思う。
そして、これからは、これを[OUEN Japan]のミッションの主柱にしようと思うに至った。
学生(大学生、留学生)の皆さん、女性経営者をはじめとした女性の皆さん、OUEN Companyの皆さんとともに能登を応援することで、皆さんが一つの心になって、皆んなでお互いを応援し合う、そんなキャッチボールをし合う"Win Win Winの関係"を構築していきたいと思う。
そして、私は東京と能登の2拠点から、この関係構築に関わりたいと思う。
その意味で、能登へ出張するのではなく、第2拠点の能登に帰るという言い回しが相応しい。
今までは、月に2泊3日だったが、これからは月に1週間程度、能登に在住することを考えている。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)