東京大学地域同窓会連合会全国大会に出席する
10月19日(土)17時から、第16回東京大学地域同窓会連合会全国大会が本郷の東京大学で開催され、石川赤門会の在京一員として参加した。
参加者は、東京銀杏会をはじめとする全国地域同窓会の会員であり、来賓として藤井輝夫東京大学総長や黒田東彦政策研究大学院教授(前日本銀行総裁)ほかが参列された。総勢約150名の盛会だった。
石川赤門会からは、オンラインで能登半島地震や大雨被害の近況報告があった。東大運動部(ボート部、アメフト部、硬式野球部)からの近況報告もあり、最後に応援部のリードによる"応援歌ただひとつ"の斉唱で締めた(やはり、応援部のエールがないと、パーティは締まらない)。
応援部の若木君(2年、石川県立泉ヶ丘高校卒)が私のところに来て、「先輩、[OUEN Japan 信念会]では、女子リーダー4名全員を含め、10名が参加させていただきます」と一言。
東大応援部の女子リーダーはここのところ毎年入部している。今年は2名が入部した。
応援部現役は、リーダー、ブラスバンド、チアリーダーの3パート合わせて、100名を超す。部員の内、7割以上が女子だ。東大の女子学生の比率は漸く3割前後まで高くなったが、応援部は7割以上であり突出している。応援部はジェンダー平等の先頭を走っているのだ。
地域同窓会連合会からも、能登半島地震について報告があった。
地震と豪雨水害については、地域同窓会連合会から石川県に対して88万円の寄付を行ったほか、石川赤門会・石川県東京事務所・その他地域同窓会の協力を得て、10/19に銀杏並木にて「能登半島地震・豪雨被災地支援募金・チャリティ物産展」を開催したと。
私も、僅かながら募金と七尾の海産物(サザエと赤西貝)の2パックを購入した。帰宅して、早速、能登の海の幸を堪能した。
[能登地域]
能登地域は、本州中央部の日本海側に位置し、圏域面積は2,404k㎡で、石川県域の12市町、富山県の1市の13市町からなる、日本海側最大の半島である。
地理的には、半島先端部(石川県珠洲市)は、金沢市から直線距離で約110km(道路距離で約140km)、また富山市からは富山湾を隔てて直線距離で約80km(道路距離で約160km)となっている。
能登地域の地形は、準平原(半島北部に連なるなだらかな丘陵地帯)、邑知潟低地帯(邑知地溝帯。半島中央部に羽咋市〜中能登町〜七尾市にかけて存する帯状の低地域)および宝達山(標高637m)を中心とする低い山地(傾斜地)からなり、地域内には多数の段丘が散在し、標高100m以下の土地は、50.6%を占めているが、傾斜が3%未満の土地は14.2%に過ぎず、低平地は非常に乏しい。
本地域の地形のもう一つの特色は、全体として半島の突出方向、すなわち東北東から西南西を軸として富山湾側に傾いている背斜構造をなしており、このため能登半島の西北に位置する地帯は、標高100mから400mの山地形で急峻な海食崖を形作り、東南側海岸線は穏やかな地形を形成している。
海岸線は約530kmにおよび、先の背斜構造から、外浦が日本海に直接面した断崖であり、内浦はなだらかな傾斜を伴い富山湾に面していることから、対照的な景観を形成しいる。
また、七尾湾は中央に能登島を浮かべ、海岸線を一層複雑なものとし、景観に変化を与えている。南部地区の西側海岸線は、長遠な砂浜海岸であり、その粒子が非常に細かく密圧が高いため、普通の自動車が走行できる全国的にも珍しい地区(千里浜なぎさドライブウェイ)がある。
これらの海岸線を中心として「能登半島国定公園」に指定されるなど、優れた自然環境と景観を保有している。
私にとって半世紀以上足が遠のいていた能登ではあるが、能登半島地震が私に"ふるさと能登"への想いを顕在化させてくれた。そして、3月から毎月能登に帰って、10月から中能登町地方創生アドバイザーに就任したことで、その想いは揺るがないものになった。
昨夜も、祖父母が夢に出てきた。私は15歳まで祖父母に育てられたので、私は祖父母っ子だ。祖父母は私の育ての親である。
祖父は、毎年GWに開催されている七尾市の青柏祭に連れていってくれた。山藤食堂で食べたうどんや、果物屋のおばあさんのところで食べた台湾バナナが忘れられない。
祖母は、祖母の実家である氷見市小久米の春秋の祭に連れていってくれた。
鉄道で氷見に行くには、七尾線で能登部から津幡まで行き、津幡で北陸本線(今は、第3セクターのIRいしかわ鉄道とあいの風とやま鉄道)に乗り換えて高岡まで。高岡で氷見線に乗り換えて氷見までいかなければならない。小久米は氷見市の山間部なので、氷見駅からは徒歩で1時間はかかるだろう。圏内とは思えない。
そんなことで、祖母は、テクテクと中能登から石動山を山越えして、小久米まで歩いた。私も祖母に手を繋いでもらって歩いた。何時間かかっただろうか。
能登を思うとき、そんな祖父母との思い出が思い出される。
だから、能登の地方創生を考えるとき、隣の七尾市や富山県氷見市の地方創生にも想いが行くのだ。
祖父母は私を育てるのが生きがいだったのだろう。私は一人っ子だったので、祖父母の内孫は私ひとり。
夏、蚊帳をかけて、祖父母と川の字になって寝たことを忘れない。
私には孫が4人いるが、私たち夫婦は孫たちとは別に暮らしている。だから孫たちとの接触は、スマホの動画や写真しかない。
私には仕事がある。能登半島地震で能登創生の応援がミッションになってからは、孫たちと会うことはもっと少なくなるだろう。
義父母も3人の孫たちを可愛がってくれた。
私は祖父母や義父母のような悠々自適な老後は送れそうもないし、送りたいとも思わない。
だから、孫たちの思いの中には、私が祖父母を思うような思いは持つことはない。
やり甲斐がある仕事があったり、孫たちとの接触があったりと、あれもこれもと、そんな贅沢は望むべくもない。両極端はビジネスマインドだけでいい。
私は能登創生の応援というミッションがあるから、それが私の生きがいになっている。能登創生の応援を高く掲げて生きていくことが私のこれからの幸せな人生なのだ。
最近、私は人から、「小林さん、若返ったね」とよく言われる。昨日の東大同窓会でも、同窓生と比較してそう思う。
仕事がある、やることがある、やらねばならないことがある、私しかできないことがある、ということが若さを保ち、健康に留意することにもつながるのだ。
一生青春
一生燃焼
ピンピンころりの人生
でありたいと、心からそう思う。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)