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先祖代々の墓参りと高校同期全体の最後の同期会

11月16日(土)、中能登町3日目。
8時に古民家みおやの里を出て、邑知地溝帯を横切って能登部駅に向かう。徒歩40分、2.8km。
能登部駅待合室で一休みして、駅近にある中條菓子店で小林本家へのご挨拶の菓子折りを買う。
中條さんは、"中能登おにぎり縁むすびの会"の会長をされている。

2021年4月4日(中日新聞)
【おにぎりの聖地 全国発信 中能登縁むすびの会 結成】
日本最古のおにぎりとされる炭化米が出土した中能登町を「おにぎりの町」として全国へアピールしようと、地元有志らが「中能登おにぎり縁むすびの会」を結成した。
山のような形や古代米を使うといった特徴などを決めた「中能登おにぎり3か条」を定めた。3日、同町金丸のかねまる交流館で発足式を開いた。 
式では、中條(ちゅうじょう)一之会長が「中能登町をおにぎりの聖地として、全国に発信したいという強い思いがある。素晴らしいスタッフにも恵まれ、これから頑張っていきたい」とあいさつ。宮下為幸新町長や泉智久金丸区長らも発足を祝った。
メンバーは、同町の地域おこし協力隊員や社会福祉法人つばさの会の職員など計13人。
おにぎりを生かしたまちおこしに関心を持つ有志が集まり、昨年2月から準備を始めた。
中能登おにぎり3か条では、山の神に対する供え物だと考えられていたことから、山形の「山角形(さんかくけい)」であること、町産の赤米や黒米などの古代米が入っていること、神や人との縁結びとなることなどを特徴とした。
連なった3つのおにぎりが赤いリボンで結ばれたシンボルマークも作成した。
多くの人におにぎりの歴史や会について知ってもらおうと、6月には古代米の田植え体験やPR動画の上映といったイベントを予定。11月には、試食会や古代米の収穫祭なども企画する。
同会の三浦克欣さんは「将来的におにぎりの専門店を開いたり、古代米の生産者を育成したりと、ブランド化を目指していきたい」と夢を語った。
同町では、1987年11月に、旧鹿西町にある「杉谷チャノバタケ遺跡」から、弥生時代のものと推定される炭化したおにぎりが出土。町は、旧鹿西町の「6(ろく)」と毎月18日の「米食の日」をかけた6月18日と、出土月にもちなんだ11月18日を条例で「おにぎりの日」と定めている。

中條さんに、お店は何時から開いているのかとお聞きしたところ、8時開店だが、7時から開けていると。個人のお店だからそうなのだろうが、7時とは如何にも早い。ハルビンには遠く及ばないが、よく働く能登の人だ。

中條さんに、「私は旧鹿西町、中能登町生まれで中能登町の復興・創生のために、月の半分、中能登町に来ているんです」と話したところ、中條さんから返ってきた返答は、「東大を出られた小林さんですか。宮下町長からいろいろお話しは聞いています。あなたが小林さんですか」とビックリされる。
宮下町長が、町の会合のいろいろなシーンで私のことをお話しになっておられるそうな。特に、旧鹿西町の人たちは、私のことを名前だけでも知っていてくださっていて、皆さん、「中能登町に帰ってきて能登のために尽くす志が高い人」だと思っていらっしゃるらしい。
えらいことになっている。変なことはできない。それなら志高く、想い(念い)を一層強く持ってミッションを果たすしかない。まさに有言実行と同じことになった。

中條さんに、OUEN Japan 信念会で、「中能登町をアピールするのに、"おにぎり"をつくって皆さんに食べていただこうと思っている」とお話ししたところ、それでは、是非、私も参加させていただきたいと。
このようにして、人の輪はどんどん広がっていき、人の和になっていく。

中條菓子店を出て、眉丈山の麓を走る旧の町道を通って、山麓にある能登部の墓まで行く。
小学生の時に通った道なのだが、その感覚は「こんなに近かったのか」と小学生の時と今との距離感の違いに驚く。子どもの時は、学校までえらく遠かった気がしていた。
また、道路沿いの家々は、私にはどなたの家か半分も分からない。いや、半分も分かるということか。
この町を去って半世紀あまり。しみじみと時の流れを実感する。懐かしさがジンと胸に迫る。

小林家の墓はすぐ分かった。墓の草取りをして、小川から水を汲んで墓にお供えする。
この墓の下に、祖父母と父と叔母が眠っている。今になって、「よく墓じまいをしようと思ったものだ」と、慚愧の念を禁じ得ない。
いくらなんでも能登に生まれ育ったこの私が墓じまいを考えるなど、とんでもないことだった。能登の地震が、私に、人間の優しく温かい心を気づかせてくれたのだ。

小林本家には誰もいらっしゃらなかった。玄関には鍵がかかっていない。能登は外出時でも鍵をかけないで出かけることが多かったことを思い出す。
名刺に「お墓参りに来た」というコメントを添えて、菓子折りを玄関に置いて能登部駅に向かった。本家には、12月にでも改めてご挨拶に伺おう。

11:34能登部発〜12:57金沢着の七尾線の普通列車に乗る。
金沢駅でランチを摂り、時間があるから近江町で海の幸を肴に一杯と思ったが、近江町は旅行客でごったがえして飲食店はどこも長蛇の列だ。仕方なしに昔ながらの喫茶店で1時間、時間を潰す。

高校の同期会の会場は、金沢の老舗料亭旅館"金城樓"だ。金沢で3本の指に入るグレードの高い料亭だ。通常では最低1人35千円はするだろう。それを25千円にディスカウントしていただいたのだろうか。

金沢の全体同期会は、てっきり古稀の祝いが延びているのだと思っていた。幹事から「本日は、卒業50周年の同期会を4年遅れで開催する」と開口一番、話しがあった。
そういえば、20年(38歳)、30年(48歳)、40年(58歳)と開催していた。
次は50年(68歳)をしようとして、コロナ禍で4年延びていたのだ。それが、古稀も過ぎて、72歳(まだ71歳の同期もいる)での開催となったものだ。
いつもは同期154名の内、60名前後が参加していた。今回は48名だった。鬼籍に入った人も10名足らずいる。病気で出てくることができない人もいる。72歳にもなるとそんなものか。よく48名が集まったということか。参加した人は、元気で幸せな人なのだ。

金沢の幹事は、「もう全体の同期会はこれが最後にしよう」と言う。しかし、できれば続けてほしいという声がチラホラ聞こえる。

私は関東同期会の永年幹事になっている。毎年春秋に、私がメールアドレスが分かっている全員に関東同期会開催のメールをする。首都圏に居住している人に限らず、関西や金沢、東北、九州からも参加する人もいる。多い時は40名は集まっただろうか。いつもは20名強が集まる。ここのところ、コロナ禍だったこと、能登の地震があったこと等でご無沙汰している。

今回集まった同期で、東京在住に限らず、関西の同期からも、「何で小林は関東同期会をやらないんだ。お前がやらなかったら誰がやるんだ。そろそろ復活させろ」とありがたい叱責をいただいた。
ちょっと手を抜いていたところがある。能登の地震から10か月以上が経ち、漸く私の能登応援活動のスタイルは固まった。月の半ばは能登だが、月末月初の在京の時、東京で開催することができる。
金沢で開催する全体同期会はこれが最後ということであれば尚更、私が永年幹事の関東同期会は、どこまで続くかわからないが、毎年春秋には復活開催することにしよう。金沢の幹事から、同期の最新のメールアドレスをもらう。
「無理はよそうぜ」で、自然体で参加できる人だけが集まればいい。

"豚も煽てりゃ木に登る"
こんなふうに、煽られて、喜んで、それに乗るのが小林の真骨頂だ。

72歳はまだまだ老け込む歳ではないと思うが、皆んなの話しを聞いて、"これからが人生の本番"という精気をあまり感じなかった。それで当たり前、私のような変わり者はそういない。

サラリーマンをリタイアして悠々自適の生活をしている人。オーナー会社の社長を退き、会長に収まって、こちらも悠々自適だ。ボランティアをしている人もいる。兎に角、私のような、"若い時代より燃えて生きている"人は一人もいない。年中無休、生涯現役の人間はほとんどいない。
皆んな、私を「ようやるな」と思ってはいても、それを真似しようとは誰一人として思わない。私の生き方は、誰にも全く羨ましがられないのだ。

そんな人間にこれからの同期会の幹事をせよと言う。きっと、私のような生涯現役でなければ永年幹事はできないのだ。
空いた時間があるかないかではなく、やる気があるかないか、人を集めようというパッションがあるかないか。
兎に角、私は喜んで永年幹事を引き受けよう。

10時31分金沢発〜11時37分能登部着の七尾線最終列車に乗る。
同期に会うことができて、今日は実に楽しかった。お酒は、いつもの芋焼酎の水割りの他、日本酒やビールやワインなど、あれやこれや、勧められるまま、気分に任せて結構飲んだ。料理も、石川の冬の味覚であるズワイガニと香箱蟹をはじめとして、最高級の加賀料理に舌鼓を打って飲んだせいで、ちょっと飲み過ぎた。
金城樓から金沢駅まで、徒歩30分。
七尾線の車内で酔いを覚まして、能登部駅から徒歩40分のウォーキングをして、みおやの里に零時9分に辿り着いた。午前様だ。
この日の歩数は、25千歩強。ちょっと歩きすぎかだったか。

日曜日の17日も、ランチを摂りに道の駅まで往復しようと思う(みおやの里から道の駅織姫の里・なかのとまで徒歩54分、距離3.9㎞。歩数にしたら7千歩くらいか)。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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