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"恕の心"を持つ

昨日、何でもザックバランに話せる友人二人と夕食をともにした。

人生を生きるにおいて、私たちは、全て気が合う人たちだけと付き合っているわけではない。そうであれば何も言うことはないが、そうは問屋が卸さない。

心から打ち解けて何でも話すことができる人もいれば、悪い人ではないがどうしても苦手な人もいる。
性格が明るい人もいれば、何事も慎重に慎重にと思うのか、人生を暗く捉えて生きている人もいる。
どう考えても悪の塊という人もいないことはないが、そんな人とは付き合わなければいい。最近は、私はblogで自らの考え方、生き方を大っぴらに表明しているので、それを読んで近づいてこない人もいる(これはblogの効用だ)。しかし、全てどうしようもない人は滅多にいないから、ほとんど全ての人たちと、それぞれの距離感を持って付き合っていかなければならない。

私は、最近になって、少しずつ、それぞれの人と相応しい距離感を取って付き合うことができるようになってきたように思う(昔は全くそうではなかった。何度か痛い目にあったが、痛い目に合わないと人間は成長しない厄介な動物である)。

それはどうしてかな、と考える。
それは、きっと、"穏やかな心で相手のことを考える"余裕ができてきたのだろうと思う。
ソクラテスの"汝自身を知れ"の箴言の通り、素直に自分自身のキャラクターを知ることによって、そのキャラクターをどうすれば一番生かすことができるかを考えるようになってきた。
そうすれば、自分と人とを比較することが全く意味のないことだと分かってくる。
この世には、人はそれぞれ、心身とも全く同じ人はいないのだから、人と人を比較することに意味はないと思うようになったのだ。

人生を、"積極的に生きる"と言っても、自ずと、相対積極ではなく、"絶対積極"になってくる。そして、落ち込むことは少なくなってくる。
そして、相手がどんなことを考えているのか、どんなことをしてほしくないのか、どんなことをしてほしいのか、が少しずつ分かってくる。
"失意泰然、得意淡然"な心になってくる。

人にあまり期待しないことだ。結果は、期待したようにならなくてもそんなものだと淡々と思うことだ。
それは、人間不信になるということではない。それぞれの人がいろいろなことを考えていて、皆んな自分のことを一番に考えているのだから、私が自分のことを考えるように人は自分のことを考えることはできないと、淡々と悟ることだ。お互い様なのだ。
それでいて、その人を大切にすることだ。

矛盾しているようで、私は全く矛盾しているとは思わなくなった。何でもありと思うからだ。その何でもあり、を淡々と受け入れることだ。
それも温かい心で、人間愛を持って。

両極端を併せ持つことができると、人間は大人物になる。大物になる。
なかなかその域に到達することは至難の業だが、その入り口に辿り着き、一歩一歩、匍匐前進していくことだ。さすれば、知らない内にその域に到達するだろう。

[人生で一番大切なこと、それは恕]

致知出版の藤尾秀昭社長の心に響く言葉より…

元京都大学総長の故平澤興さんは、論語の一節がお好きだったようで、
著作や講演によく引用されている。
以下、平澤さんの解釈に従う。

子貢(しこう)は聞いた。
「先生、たった一語で、一生それを守っておれば間違いのない人生が送れる、そういう言葉がありますか」
孔子は、「それは、恕(じょ)かな(其恕可)」と答える。

孔子が「恕なり(其恕也)」と断定せず、「恕か」と曖昧(あいまい)に答えたところに、なんとも味わい深い孔子の人柄を感じる、と平澤さんは述べておられる。

自分がされたくないことは人にはしてはならない、それが恕だ、と孔子は説いた。つまりは思いやりということである。
他を受け容れ、認め、許し、その気持を思いやる。自分のことと同じように人のことを考える。
そのことこそ、人生で一番大切なことだと孔子は教えたのである。

『小さな人生論 2』致知出版

何はともあれ、【恕の心=思い遣りの心】が人生で一番大切な心であり、その心を持つことが幸せの最短距離ということだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)


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