私の名付けの親に会う
黄副団長が、20日から25日まで、5泊6日で中能登に来る。
13時過ぎに、"道の駅織姫の里 なかのと"で合流することにした。
午前はOUEN Company の1社とのZOOM MTGがある。
それでは、ブランチも摂ることだし、道の駅でZOOMをしようと思い、バッグにパソコンを入れて少し重いが、道の駅までウォーキングをした。宿泊先のみおやの里から道の駅まで、徒歩で54分、距離は3.9kmある。
爽やかな晩秋の小春日和だ。身体もだんだん暖まってくる。8時過ぎに出発し、9時に道の駅に到着した。まだZOOMのスタートまで1時間近くあるが、ネットでニュースを視ることにしよう。
ZOOMは、私が紹介した会社とのビジネスの進捗状況のヒアリングと、成約に至るまでに私が何か側面支援することがあれば、そのこともお聞きする趣旨のMTGだ。
昨日は、それに加え、私から能登の出張報告をさせていただいた。
前日、教育委員会の皆さんとMTGした不登校問題、学力の向上問題、生涯教育の問題を、4月から開催しようと思っている"OUEN塾 in 中能登"が解決の一助にならないものだろうか。」
これは、先方にとってビジネスから外れるものではない。
中能登町の課題をヒアリングして、その課題解決のために、同社のサービスが何か活用できないかと、アバウトながらそう思ったからだ。
「御社のサービスを導入している企業や自治体の事例を参考にして、中能登町の課題解決になるアイディアを提案いただけないものか」と、そんなことを話したところ、「そのニーズに応えてくれるだろう会社がある。その会社のサービスは弊社のサービスを使ってブラッシュアップをしたもので、そのサービスは中能登町にも貢献できるものではないだろうか」との返答。そうなれば、回り回って、間接的に同社ビジネスの拡販にもつながる。まさに、”友だちの友だちは皆友だち”で、ビジネス拡販になる。
絶えず、あることに問題意識を持って生きていると、何かあった時にピンとくることがある。私では解決できないと思うことでも、「この人が、この会社が、解決してくれるのではないか」と思うに至ることが、ビジネスを拡げていくのだ。そして、友だちは増えていく。
ZOOMを終えて、平和堂 アル・プラザ鹿島に出向き、店内をぶらぶらする。胃薬を買ったり、店内にある飲食コーナーでブランチを摂る。
道の駅でも食べることができるが、その他の店舗も利用してみたい。前回は8番ラーメン(石川県を通っている国道8号線から名付けられたという)だった。次回はCocosにしようか。それとも、McDonaldにしようか。
黄さんと13時すぎに道の駅で合流した。良川駅から歩いてきたのだと言う。30分弱かかったと。タクシー会社に電話したところ、回すタクシーがなかったのだと。田舎のタクシー会社だからそんなに台数は持っていないのか。健康のためにもウォーキングは悪くないと思えば、いいことづくめだ。
14時に道の駅発の”ろくせいコース”のコミュニティバスに乗る。私の実家があった森ノ宮の停留所も通過した。その名前を見聞きするだけでも懐かしい。
行政サービス庁舎まで12分。16時からのMTGなので、だいぶん早いが、次のバスは道の駅16時発なので、それではMTGに間に合わない。黄さんはキャリーケースがあるし、帰りは行政サービス庁舎からみおやの里までウォーキングをするから、行政サービス庁舎行きはコミュニティバスを使おう。
行政サービス庁舎にある3つの課の課長の皆さんから、課題のヒアリングをする。地震直後のバタバタからは脱却して、事務作業は通常に戻っているようだ。
業務以外の話だが、山邉裕久さんとの会話で過去を懐かしむことができた。彼の奥さんの実家が、私の実家のすぐそばなのだと。小林本家の一件置いての隣なのだと仰る。もしかして、そのお宅は私の名づけの親の大森勝三さんのお宅ではないか。お聞きすると当にその通りだった。
奥さんは勝三さんの孫にあたる。奥さんのお母上は、私より少し年上の目鼻立ちがはっきりした勝気な美人だった。ご健在だそうな。山邉さんは、元日に大森さん宅でご家族で正月のお酒を飲んでいた時、地震に遭遇したのだと。家は被害に遭って、今はその奥のところにお住みになっていらっしゃるのだと。
勝三さんは私の名付けの親だ。私の名前を”博重”と名付けていただいた。
博重の名は、あるようでない。安田信託銀行の新入社員の時、世田谷区桜新町で新玉川線(現在の田園調布線)の開業に合わせて、私は世田谷区のこの地区をベタ勧(ベッタリ勧誘)した時に、私と同姓同名の人の奥さん宅を訪問した(契約はいただけなかったが)。同姓同名の人は、今までその一人だけだ。
私は、「博重という名は、人間として第一等の”深沈厚重の人物”のことだ」と思っている。
深沈厚重は、磊落豪雄や聡明才弁の上の、人間として、リーダーとして、最高の人物のことだ。そのような人物になれ、と勝三さんは私に博重と名付けてくださったのだ
勝三さんは、在所で長老と言われていた名士だった。祖父や父も勝三さんを尊敬していて、何か事があると相談に行っていた。勝三さんが町会議員に立候補されたときは、私の家が選挙事務所になった。そんなことまで思い出した。
月に半分を中能登に住もうと思うと、半世紀以上前のことだが、15歳までのいろいろなことが思い出されてくる。それは過去を振り返るということだけではない。
これからの未来を如何に生きるか。どんな能登への貢献をしていこうかという想いが募ってきて、想いは念ずるという”念い”にまで高められてくる。志は一層堅固になっていく。そのベースには、”能登のために尽くす”という大義がある。
私にその念いがなければ、決して人さまは付いてきてくださらない。まずは、私が念うことだ。熱く念うことだ。全てはそこから始まる。
不動院重陽博愛居士
(俗名小林博重)