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小林本家から、私のルーツを教わる

12月14日(土)、10時~15時まで、天日陰比咩神社で”どぶろく祭り”があった。この神社は、中能登町観光協会の船木会長が禰宜(ねぎ)をされている。船木さんは、12日(木)に道の駅で”のと、どぶろく宣言セレモニー”があり、その宣言をされた人だ。

北國新聞12月13日朝刊

道の駅での面会に続き、その二日後には禰宜をされている天日陰比咩神社でもお会いした。いや、船木さんとは、13日(金)の鵜宿(鵜様道中ミュージアム)で、「氣多の鵜祭りの習俗」が国の重要無形文化財に指定された25周年記念イベントでも、観光協会会長としてご出席されていらしてご挨拶をさせていただいた。3日連続の面会だ。
ほんとうに能登はお祭り好きの地域であり、能登の人たちは、人と人とのつながりで生きていると実感する。

午後、寒いが、小雨は上がった。晴れ間も出てきた。ウォーキングするのに支障はない。みおやの里を8時過ぎに出て、天日陰比咩神社まで6.1㎞を1時間半かけてウォーキングする。9時半に着いた。
神社の境内では、関係者の方々が、10時からのどぶろく祭りの準備に専念されている。この祭りでは、全国の9銘柄のどぶろくの飲み比べをする。一番の人気は、”鬼ババァー"と言う京都のどぶろくだそうな。作り手は、鬼婆ならぬ優しそうなおばさんだ。

中能登町には、3月から毎月2泊3日で来ていたので、知ったお顔がちらほら。私は、「お客さんではなく、少しずつ中能登町の住人になっていっているんだ」と、彼らが私に接していただく態度で感じる。やはり、人と人のリアルな触れ合いは人間関係を強くする。Webではこのようなことは絶対あり得ない。
人脈づくりが私の得手であり、それが仕事の私にとっては、中能登町、能登半島の復興と地方創生を応援していくために、11月からの月半ば2週間の中能登滞在はとても大きな意味があるのだ。

日本の「伝統的酒造り」ユネスコの無形文化遺産 登録決定

ユネスコ=国連教育科学文化機関の政府間委員会は、日本酒や焼酎、泡盛といった日本の「伝統的酒造り」を無形文化遺産に登録することを決めました。

ユネスコ無形文化遺産登録!世界に誇る日本の酒造りの神髄
南米のパラグアイで開かれているユネスコの政府間委員会は、4日、日本時間の5日午前4時前、日本が提案した日本酒や焼酎、泡盛といった日本の「伝統的酒造り」について審議しました。

その結果、全会一致で無形文化遺産への登録が決まりました。
500年以上前に原型が確立した日本の「伝統的酒造り」は、
▽米や麦などを蒸す、
▽こうじを作る、
▽もろみを発酵させるなど、
伝統的に培われてきた技術が各地の風土に応じて発展し、自然や気候と深く結びつきながら伝承されてきました。

こうした技術で製造される酒は、儀式や祭礼行事などにも使われ、日本文化で不可欠な役割を果たしてきたとされています。

どぶろくもにごり酒も清酒も、そのつくり方の過程は違うが"日本酒"であり、中能登町はどぶろくの一大生産地である。そして、2026年(再来年)1月16日に全国どぶろく研究大会が中能登町で開催される。

今まで、何でもかんでも、中能登町は”裏方に徹してきた”感があるが、これからは、「中能登町、ここにあり!」と強く自己主張をして、能登半島の復興、地方創生の拠点とならなければならない。
そのような矜持を持つ迫力ある町にならなければならないと思う。

14時に能登部上の小林本家を訪問し、長年ご無沙汰していたお詫びのご挨拶をした。
天日陰比咩神社がある二宮から道の駅まで2.6㎞、ウォーキングで約30分。道の駅でお昼を摂って、能登部上の小林本家まで3.4㎞、ウォーキングで約50分。

私が半世紀前の幼いころ、大好きだった良川の伯母さんの家までよく歩いて行ったものだ。その道を歩いてみたくなった。
スマホの道案内は当時産業道路と言われていた県道を示していたが、そちらではない半世紀前に通っていた町道を歩いて小林本家に向かった。

この道は鵜様道中の道でもある。良川から能登部に行く途中の西馬場の町道を歩いていたら、そこに”鵜埋塚”があった。鵜を埋めた塚だ。鵜様のお墓だ。すぐに道端さんにお電話してその経緯をお聞きした。

西馬場の町道に沿ってある鵜埋塚

江戸時代、鵜様道中の際に、良川の鵜様本家を出て西馬場を通っていた時に、鵜様が亡くなったのだと。その鵜様は病気持ちの鵜様で、鵜捕部のせいで亡くなったわけではないのだが、その次の年はいろいろ不幸なことが起きたのだと。
それで、次の年に鵜様が亡くなった西馬場に鵜様の墓が建立されたのだと。

私は能登部から良川に行くときは、いつもこの道を通っていた。しかし、鵜埋塚があったことは全く覚えがない。意識していないと言うことはそのようなものだ。
稲盛さんも、いつも問題意識を持って生きることが大切だと仰っている。
そうすれば、人でも物事でも何でも、何かに出会った時、ふとインスピレーションがが働き、目の前が明るくなることがある。それは奇跡ではなく、必然なのだ。奇跡を必然にするために、絶えず問題意識を持って生きていくことなのだ。鵜様のことを思っていると鵜埋塚がふっと目に入ってくる。
まずは思うこと、想うこと、念うことだ。

私は、「恐れ多いことだが、私は海鵜の生まれ変わりになりたい」と思うようになった。海鵜は神鵜だ。能登を救う神鵜なのだ。誠に恐れ多いことではある。それくらいの矜持を持って生きていなければ、できるものもできはしない。そんなことを考えていたので、鵜埋塚がふと目に留まったということだろう。

小林本家で、半世紀ぶりの話に花が咲いた。祖父の姉のちえさんを祖母に持つ福井清久さんも本家に来られた。
やはり、本家は違う。小林家の家系図を見せていただいた。本家は”けーさ”、"きーさ"という屋号だ。これは”喜様(きーさま)”から来ている。代々が喜を名前の頭に付けているからだ(私の家の屋号は”らんぱっちゃ”、"ざんぱっちゃ"だ。祖父が理髪店をしていたからだ。散髪屋(さんぱつや)から、”らんぱっちゃ”、"ざんぱっちゃ"になった)。

私の祖父の名は米次郎だが五男だったのだと。曽祖父は喜三平、その父が喜平、その父が喜兵衛。小林家は信濃(長野県)が発祥の地なのだと。私は、先祖は越後(新潟県)で上杉家の忍者をしていたと聞かされていたのだが、どうもこれは嘘っぽい。本家が言うのが本当だろう。

祖父の母(私の曾祖母)は、祖父が日露戦争で出兵した時、近所の人たちに、「米次郎は、必ず手柄を立てて凱旋してくる。金鵄勲章をいただく功績を挙げる」と言っていたのだと。家族は、「そんな恥ずかしいことを言わないでほしい」と言ったそうだが、「それは本当のことだ。米次郎が金鵄勲章を着けて夢に出てきた。あれは正夢だ」と言って、みんなの忠告を意に介さなかったらしい。
そんなことを本家の跡取りの喜市郎さんからお聞きするとは思わなかった。

「ひろちゃんも、中能登に住むんだったら、これから長いお付き合いをしていこう。早く住む家を決めなければならないね」と喜市郎さんだけではなく、奥さんの文恵さんからも温かい言葉をいただいた。
「中能登町に帰ってきて良かった」と思った。そして、心から「中能登町のために尽くしたい」と思った。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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