真の大才とは?
人間は"幸せに生きる"ために生まれてきた。では、その"幸せ"とは何だろう?
人間は一人では生きていくことができない。人間は、その名の通り、"人と人との間"で生きている生き物であるから、幸せに生きていくためには、"スムーズな人間関係"で生きることが極めて大きなウェイトを持っている。そして、人と人の間をつなぐものは"ご縁"というものではないだろうか。
そのご縁の大切さを象徴的に言い表した箴言が、私がいつも心している"柳生家の家訓"ではないかと思う。
小才は、縁に出会って縁に気づかず
中才は、縁に気づいて縁を生かさず
大才は、袖振り合う縁をも生かす
私は、ビジネス&ボランティアで人と人とをつなぐことを生業にしていることもあり、商売柄、お会いする人はどういう人だろうかと、上から目線と思われるかもしれないが、「はたして、この人は小才だろうか、中才だろうか、はたまた大才だろうか」と、いつも人を"品定め"しているところがある。
少しずつ目が肥えてきていると思うが、人間であるからして、外れる確率は低くなったものの、間々外れることがある。そんな時、自分の人物眼の足らずに忸怩たる思いを持つ。
そして、「何で?どうして?」とその理由を探し求める。
しかし、その失敗があることで、失敗に学び、一段と見る目が肥えていくのだが(勿論、失敗はないほうがいい)。
よく小才と中才と大才の比率を考える。
残念ながら、どうしようもない小才は一定比率はいる。10%くらいはいるだろうか。
この人たちは、その人が持っている感性という心の機械が壊れているのだ。壊れているから、縁に出会ってもそれを縁と気づかない。その感性という心の機械は生まれ持ったものだからもうどうしようもない。
そのような人と出会ったなら、当たらず触らず、距離を置いて、それ以上その人に近づかないことだ。決して、ぶつかってストレスを溜めるようなことをしてはいけない。
圧倒的な比率で多いのは中才だ。人間の80%は中才だろう。中才は、感性という心の機械は壊れてはいない。勿論、ピンからキリはあるが、キリでも磨けば少しずつ光ってくるから、根気よく磨き続けることだ。
中才は縁に気づくことができる。縁に気づいたらそれを生かせばいいだけなのだが、それができない。ごく当たり前、単純なことなのだが、そうは問屋が下さないのが、性弱な人間のなせるわざなのだ。
私は人間は利己主義の生き物だと思っている。それを否定しても全く意味がない。
問題なのは、その人の利己主義が中途半端であることなのだ。利己主義が中途半端なために、なかなか心が幸せにならないのだ。
人間は生きていくために自分を守ろうとする。自分が一番大切だからだ。稲盛さんが仰る利他にまでは、ちょっとやそっとではたどり着くことはできない。棺を覆う時になってやっとその境地に辿り着くのが関の山だ。そのような人は超一流の人間だ。そんな人は万に一人いるかいないかだと思う。
私が思うのは、その利己主義の深みなのだ。ほとんどの人は中途半端な利己主義でお茶を濁している。利己主義を極めていないのだ。
稲盛さんと瀬戸内寂聴さんの対談本「利他:人は人のために生きる」(小学館文庫)がある。
私は、人は自分のために生きる生き物だと思う。そして、自分を何よりも大切に思うのであれば、どうしたら自分が幸せななるのかを突き詰めて考え行動するはずだ。
そして、そのたどり着くところは、「人のために生きる」ことが自分が一番幸せになる近道だと気がつく。それが利己の行き着くところだと思うようになる。利己について、考え行動するうちにそのように思うようになる。
利己を極めなければそうは思わない。「あなたのおかげです。ありがとうございます」と言われて、それを言われる幸せを感じて、「人のために生きる」ことが「自分の幸せ」なのだと気がつくのだ。それが人間という性弱な生き物であるがゆえの"利他"なのだと思う。
そのような、"利己を極めて利他に近づく"ことが本当の"大才"ではないかと思う。
袖振り合う縁をビジネスにしようと思うだけの深掘りしない縁を求める人を決して大才とは言わない。
全て、人は、真の大才になってほしいと思う。
それには、人は、"謙虚と感謝の心"、"人のことを思い遣る恕の心"を持って生きることが必須だろう。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)
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