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リメイクした義父の大島紬を着用して、能登の仕事をする
昨日(1.26(日))は上野で”関東なかのと会”があった。全く同時刻に麴町で石川県人会があったが、私は中能登町地方創生アドバイザーであることもあり、前者を優先した。
石川県は人口110万人弱(2024.12.1現在)の北陸3県(富山県、石川県、福井県)の一つである金沢(県庁所在地、加賀前田百万石の城下町)を中心としたまとまりのある県である。
加賀百万石は加賀・能登・越中(富山県)が領地。石川県は、日本の100分の1以下の小さな自治体である。その内、能登(9市町)は石川県の面積の約半分を占めているが、人口は、20万人を割り込んでいる。能登半島地震で、少ない人口はさらに拍車がかかり、この1年で3割は減少しているとか(スマホのGPS追跡)。それから石川県の面積の半分で、人口は1割強である。特に奥能登では、若者は金沢をはじめとする県内外に職を求めて生まれ故郷を出て行く。職がなければ帰りたくとも帰ることはできない。
そのような現状の中で、能登を出て都会に生活をしている人は、「ふるさとを応援しよう」と、今まで以上に、県人会や基礎自治体の集まりに集まってくる。地震が輪をかけているのだ。私もその一人だ。その中の先頭を走っているのかもしれない。
まさに、石川啄木の詩にある「ふるさとのなまりなつかし 停車場の人ごみの中に そをききにいく」そのものだ。
関東なかのと会は、たまたま啄木が詠った停車場である上野駅の傍の居酒屋だった。中能登町は、旧鳥屋町と旧鹿島町と旧鹿西町の3町が20年前に合併した。同じような財政状況の町同士の合併だった。それまでは、同じ鹿島郡でも対抗意識があってあまり仲はよろしくなかったように、幼い私は感じていた。まだまだ、「あの人は〇〇町の出身。あの人は△△町の出身だ」と言うが、これはどこに住んでいるかを聞いているだけで、それがお互いをよく知る一つの手段にしか過ぎない。1年弱、中能登町に帰っていて、私はそのように実感している。
それが中能登町の中だけではなく、中能登地域(能登半島南部)、奥能登も含んだ能登半島全体、それに氷見市(富山県)も含めた広域の基礎自治体の枠を乗り越えた一体感の醸成が、能登半島の復興・地方創生には必須と思う。今の能登半島はそれができる。危機をチャンスにすることだ。
”関東なかのと会”は2時間の懇親会だったが、それぞれの出身の地名(在所)を言い合って、Lineや名刺を交換しあった。「能登を応援したいが、東京ではどうしたものか」とか、「会社で、いろいろな地方に企業版ふるさと納税をしている。中能登町にもしたいが、ビジネスでの繋がりもつくりたい」とか、「小林さん、繫いでくれませんか」「OUENJapanを応援することが能登を応援することになるのですか」とか言われた。
OUENJapanは、関東の中能登町出身者と中能登町を繋ぐ蝶番役をするのがミッションの一つなのだ。
私が乾杯の発声を任されたので、そのご挨拶に次回のOUEN Japan 信念会の日程もお話しした。関東なかのと会の会員は50名くらいいらっしゃるのだと。10数名くらいはご参加いただけるだろうか。
17時半から、安藤裕美さんにご紹介された経堂にある楊梅桃李で久しぶりに90分マッサージの施術を受けた。疲れていたのだろう。筋肉がカチカチだったと。ちょっとこのところ、ウォーキングはご無沙汰している。デスクワークばかりだ。それに、特に冬になると出不精になっている。
2月は、17日の週には能登に出向こうと思う。いつもの2週間は、2月~3月は雪と吹雪の能登では1週間にしようか。皆さんにご迷惑をかけるわけにはいかない。
今朝は、信念会で着用した、義父の大島紬のリメイク(キモノール)を妻のアドバイスをもらいながら、一人で着用した。10分もかからなかった。妻も「これは優れものだ」と言う。特に義父の大島紬は妻には思い入れがあるようだ。これを何とか全国区にしたいと思う。
和服を着ると気分が引き締まる。OUEN Japan 信念会にご参加いただいた200名以上の方々にお礼のメールを発信する。そして午前は、2月15日までのアポイントを入れる。
東京にいても、能登の応援をしている。これが私の後半人生(第二生)のミッションだからだ。精神は若くなる。このミッションを果たそうと考えて行動していれば、決して認知症にはなることはない。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)