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中能登の人情に触れる

2月18日。2月の中能登町逗留2日目だ。鵜家宅は、実に快適だ。外は銀世界で気温は零下だが、炬燵とエアコン、風呂で身体も心も温まる。人の情けが身に沁みる。

鵜家宅は、OUEN Japan の中能登町の拠点であり、能登半島復興・地方創生の拠点となるだろう。

鵜家宅は良川であり、駅まで徒歩10分強。御祖の里のことを思えば、雪道でもそんなに苦とは思わない。粉雪が舞っていたが、お昼の腹ごしらえに駅近の”こばやし”(お弁当屋さん)に買い出しに行く。
昨日も買ったので、おかみさんは「昨日はどうもあんがとう。いつ東京に帰られるん?」と。私は、「今週1週間中能登にいます。またお世話になります」と言葉を返す。何気ない会話が心を温かくする。
おかみさんは、「これは何、あれはなに、みんな美味しいですよ」といろいろ勧めてくれる。

昼の弁当を買って宿に帰っていただき、キモノールの坂井さんと午後一番に鵜家宅でミーティング。彼女は車で来られているから、次の打ち合わせの場所まで送っていただく。
田舎は車社会であり、雪道のことでもあり、こんな時は厚かましくアッシー君をお願いする。度厚かましくても嫌われないことがスムーズなコミュニケーションのコツだ。その点、私は及第点をいただける。

中能登町一青の鳥屋酒造の前にて

次の打ち合わせ場所は鳥屋酒造だ。この酒造メーカーは、私の伯父が2代前の社長をしていた。幼い頃、何度か訪問した。
ナオライは、鳥屋酒造の醸造酒を蒸留して41度の浄酎と名付けたリキュールをつくるベンチャーだ。
同社は本社の広島でスタートし、第2号が中能登だ。
三宅社長から、これからのNOTO Naoraiについてお話しを聴く。また、鳥屋酒造の田中社長と3人で、これからの中能登町について語り合う。

NOTO Naoraiは、中能登で3人の新規採用をするのだとか。そのメンバーは皆他県からの移住者になるそうだ。それも20代~30代と若い。
彼らは、中能登町の何処が魅力で中能登町に移住してきたのだろう。そして、ベンチャーのNOTO Naoraiに就職しようと思うのだろう。勿論、「中能登町は魅力がある町だ」と思ってのことだろう。そこのところをよく聴いてみたい。
それに反して、はたして、中能登町の住民はどれだけふるさとに魅力を感じているだろうか。もっと魅力がある町にしようという郷土愛を持っているのだろうか。
その想いの熱さを醸成することが、中能登町が"過疎地でも元気あふれる町"になる一丁目一番地だ。OUEN Japanのミッションはそんなところにある。

三宅社長に、鳥屋酒造の隣地にある浄酎の蒸留工場をご案内いただく。4月に蒸留所の発所式を執り行うので、私にも出席してもらいたいと。何とか時間を調整して出席したい。

18時から、農園食堂”和み”で18時から小中学校の同期会がある。和みまで三宅社長に車で送っていただく。度厚かましくても嫌われない私の真骨頂だ。

同期とは、15歳に中学校を卒業してから半世紀以上会っていない。
長三、勝、正幸、節子、博重の5人の同期会だ。学校では同じ苗字の同期が多いので、名前で呼んでいたのだろう。ちゃんと下の名前は憶えている。
お酒が入ると、小中学校の懐かしい話に花が咲く。正幸さんは、「この1週間、同期会のことを思うと、興奮してよく眠れなかった」という。同じ町に住んでいる同期であっても、なかなかこんな機会はないのだろうか。
「博重を何と呼んだらいいか。小林君、小林さん。やっぱり博重がいい。博重しか呼べないな」
みんな、能登弁で話すザックバランな私を見直したところがあるように思えた。私は、特に中学生の頃はみんな私と少し距離を置いていたところがある。付き合いづらい子どもだったのだろう。
半世紀あまりの年月は、私を少し大人にしてくれた。

「だらやなー」「なにしとるがいや」「なにゆうとるがいや」「それせんちま」等々、能登弁が飛び交い、会は盛り上がる。
そして、みんなが私に言ってくれる。「中能登のために頑張ってくれ。応援するぞ」「3月にも集まって、他の同期にも声をかけて集まろう。そして、この会を”博重会”と名付けよう」ということになった。
ありがたいことだ。ますます、気合が入る。


農園食堂"和み"にて、小中学校の同期のみんなと

帰りは、和みのご主人に鵜家宅まで送っていただいた。何せ、タクシーは19時までしか呼んでも来てくれない。

昨日は、中能登町の温かい心に触れた一日だった。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)




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