大学クラスの同期3人で忘年会をする
坪内和人さん(静岡銀行社外取締役、元NTTドコモ副社長)と御手洗尚樹さん(マブチモーター社外取締役、元日立製作所常務)と、外苑前のKAWAKAMI-AN(青山グランドホテル2階)で、忘年会をして旧交を温めた。
2人とも、東京大学教養学部(駒場)時代のクラスメイトだ。
コロナ禍前は、私が幹事をして、クラスの同期会をしていた。40人くらいのクラスだったが、いつも10人以上が集まっていた。
坪内さんと御手洗さんには、NPO OUEN Japan の理事をお願いしていることもあって、今回は3人だけの忘年会になったものだ。
私たちは、昭和46年4月に東京大学文科一類に入学した。1〜2年の教養学部時代は第二外国語でクラスが分けられていた。私たちは中国語クラスだった(私は全くと言っていいほど語学センスがない。中国語は全く話せないし、聞いても分からない)。
中国語クラスは、前年までは、文科一類と二類が合同のクラスだったが、私たち同期からは、それぞれ別のクラスになった(合同で集まることもあったが、親密になったのはどうしても同じ文科一類のクラスの仲間だ)。
この当時、第二外国語で中国語を選択する学生は少なかった。私たちが大学に入る前後に中国ブームがあった(私は、高校時代の受験勉強のおりは、勉強部屋の机の前に"毛沢東の肖像画"を貼っていた)。
そんなことで、中国ブームに乗って第二外国語を中国語にした学生は少なからずいたと思う。
法学部の主流はドイツ語、その次がフランス語だったと思う。
中国語クラスの同期は変わり者が多かった。それが他のクラスより仲が良かったことにつながっているような気がする。
大学1年の時は、"能登合宿"と称して、約10人のクラスメイトが私の実家が経営する能登の旅館(新宿旅館)に泊まりにきた。皆んな、米2合を持ってきただけで、それが1週間の宿泊代と飲食代だ。
実家は大騒ぎだった。何せ能登のど田舎だ。私が町で2番目の東大合格者という田舎町だ。
家族が一丸となって接待をした。
自家用車3台での奥能登巡りや羽咋の千里浜海岸での海水浴を楽しんだ。皆んな、現役合格か一浪だったから20歳前の未成年なのだが、その当時は大学に入れば成人になったということで、父が経営するバー"おはなはん"や、叔父叔母が経営する焼鳥屋"有楽町"で毎晩大酒を喰らっていたことを思い出す。
私たち3人は現役だったので、3人とも今年で71歳になった。18歳の出会いから、はや53年が経つ。思えば遠くに来たもんだ。話す内容もも変わった。
御手洗さんは、今年は四国八十八箇所霊場巡りを始めたのだと。
この霊場巡りは、四国にある空海(弘法大師)ゆかりの88か所の仏教寺院を巡るもので、巡礼者はお遍路さんと呼ばれる。
御手洗さんは、一番札所からということで、今年は阿波国(徳島県)の23か寺を1週間かけて巡ったとか。
来年4月には、土佐国(高知県)を室戸岬から足摺岬まで16か寺を巡る予定だと。
伊予国(愛媛県)の26か寺と讃岐国(香川県)の23か寺もできれば来年巡りたいのだと言う。再来年に延びるかもしれないが、1人で(いや、1人ではない。同行二人だ。弘法大師と二人で巡るのだ)1日20kmを目安に歩くそうな。
私たちはそんなことを話す歳になったのだ。そして、坪内さんは、「四国霊場巡りをしてみたくなった」と。
私も同様に、元気なうちに四国霊場巡りをしてみたいものだと思う。
私はまだまだ現役中の現役であり、若い時よりすることは多いからいつになることやら。10年後、八十路を過ぎてからのことにしよう。それまで、足腰を鍛えて、軽く毎日20〜30kmは歩くことが苦でない身体をつくっていきたい。
来年は5年ぶりの大学のクラス同期会をしよう。
何せ、私は永年幹事であり、私が声を掛けないと誰も動かない。私はどこでもそんな役目を仰せつかっている。ありがたいことだ。これが認知症予防の特効薬だと、喜んで、一生懸命、人のお世話をすることにしよう。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)
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