戒名に相応しい第二生を生きる。
令和4年6月4日(土)、南麻布「了聞」にて生前葬を、引き続き、神宮球場向かいの「日本青年館」にて出陣式を執り行った。それから早いもので1年が経った。
私は一旦70年の第一生を閉じて生まれ変わり、今、第二生を生きている。あっと言う間の1年だった。70年の第一生もあっと言う間だったのだから、第二生の1年は何をか言わん、「光陰矢の如し」だ。
私はこの1年でどれだけ成長しただろうか、忸怩たるものがある。
第一生の七転八倒、紆余曲折の人生を送った経験という「高下駄」を履いて第二生をスタートしたわけだが、大空に飛び立つためにはどうしてもこの1年の助走期間が不可欠だったようだ。天もそれくらいは大目に見てくださるだろう。
そして、いよいよ、第二生の滑走路とおさらばし、天空を大飛翔する時を迎えた。これから、私の「人生、秋の陣」の本番が始まる。
第二生は戒名「不動院重陽博愛居士」が私の本名だ。「小林博重」は俗名になった。
この戒名は瑞華院了聞の福井住職(上人)に付けていただいた。
「不動院」は、私の祖父が日露戦争の旅順の戦いにおいて、お不動さまに護られて露軍に奪われた軍旗(第九師団第七連隊旗)を奪取したこと等で金鵄勲章を受章したことに依っている。
「九死に一生を得て今がある。ぼう(私のこと)、お国のために尽くす人生を生きるんだぞ」といつも祖父は言っていた。
昭和の初め、中能登の眉丈山の中腹に不動明王が建立された。
祖父は、日露戦争の時の「九死に一生を得たのはお不動さまのお加護だった」との想いがあって、その建立の先頭に立って汗水を流したそうな。
私も幼少の折、祖父に連れられてお不動さまの参道の掃除に勤しんだものだ。
そんな想いで、福井住職にお願いして、恐れながら「不動院」という院号を授けていただいたのだ。
そして、「重陽博愛」は福井住職に付けていただいた。
中国では奇数のことを陽数といい、縁起がいいとされてきた。人日の節句=七草の節句(1月7日)・上巳の節句=桃の節句(3月3日)・端午の節句(5月5日)、七夕の節句(7月7日)もおめでたい日は全て奇数だ。
その一番大きな陽数(奇数)の9が重なった9月9日が「重陽の節句」だ。「重陽」とはそのようなおめでたい極みの意味がある。
福井住職曰く、
「小林さんの周りには、多くの『陽のエネルギー』を持った心優しい心豊かな人たちが集まって来られます。
その『陽のエネルギー』を持った人と人をつなぐことが小林さんのミッションなのです。『重陽』とはそのような意味です。
また、『博愛』は『愛を広(博)める』『広(博)く愛する』ことであり、小林さんは周りに集まってきてくださった多くの人たちに愛を広め、彼らたちを広く愛するというミッションがあるのです。
そのような想いで小林さんの戒名をお授けしました」と。
『不動院重陽博愛居士』の戒名のような第二生を生きることだ。その名に恥じない人生を生きることだ。
人のため世のために尽くす人生が私の第二生なのだ。
そんな想いで第二生の満1歳を迎えようと思う。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)