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中能登町の人たちの中に溶け込む
中能登町の3日目。雪は未だ降っていないが時間の問題だろう。最近の最高気温は一桁で、防寒対策を万全にして、気合を入れて外出する必要がある。
今日の午前は、古民家”みおやの里”で、OUEN Company の皆さん宛てにパソコンと電話でフォローをする。
農事組合法人"能登やまびこ"理事の稲葉さんが宿泊先の古民家にいらして、1時間半にも及ぶ打ち合わせをする。話題は、能登の復興のみならず、「如何にして能登の創生をするか」にまで及ぶ。
「能登の創生は20年はかかるだろう。長丁場になるだろう。気合を入れて取り組もう」と意見は一致する。稲葉さんと私は、人生を生きる姿勢がおんなじだ。だから気が合う。
彼は車でいらしたので、その足で、厚かましくも、道の駅や鳥屋酒造に連れていっていただく。
鳥屋酒造は、以前私の伯父が社長をしていた中能登町の小さい酒造会社だ。私は、何度も一青の本社を訪問したことがある。
【鳥屋酒造株式会社】
皆さまお世話になります。鳥屋酒造は能登の小さな酒蔵ではありますが、飾らない自然体で皆様に愛されるようコツコツ商いをしていくことをモットーにしております。
これからも皆様に喜ばれるように精進し、また銘酒である【池月】(名馬)のように飛躍していきたいと思っております。
今後ともよろしくお願いいたします。
「池月」(いけづき:生月)は源頼朝愛用の名馬。
1180年(治承4年)に源氏再興の挙兵をした源頼朝は、石橋山の戦いに敗れた後、海路安房(源頼朝上陸地)へと渡り、千葉常胤、上総介広常らの武将を従えて鎌倉へと向かった。
その途中、洗足池の畔に宿営し、諸将の到着を待ったという。その折、どこからともなく野馬が飛来。その嘶く(いななく)声は天地を震わすばかり。
郎党が捕らえてみると、逞しい馬体は、青い毛並みで白の斑点を浮かべていたという。
突然、源頼朝の前に現れたこの野馬は、「池に映る月影のよう」であったことから「池月」と名付けられ、頼朝の乗馬とされた。
これより前、源頼朝は「磨墨」(するすみ)も得ており、今また「池月」を得たことは平家征伐軍の成立の吉兆であるとして、征旗を高らかに掲げたという。
~宇治川の先陣争い~
1184年(寿永3年)、源頼朝は、木曽義仲を討つため、弟の範頼と義経を上洛させる。
そして、宇治川の戦いでは、源頼朝から、「池月」を与えられた佐々木高綱と、「磨墨」を与えられた梶原景季の先陣争いが繰り広げられた。
前方を行く景季に対し、高綱は「馬の腹帯がゆるんでいるから、おしめなされ」と声をかけた。
景季が腹帯を締め直している間、高綱は先に川の中に馬を乗り入れ、向こう岸へと渡り、先陣の名乗りをあげたのだとか・・・。
この名馬池月は能登で生まれた。
私が幼い頃、鳥屋酒造は清酒"能登正宗"の醸造元だった。能登正宗とは能登の酒という分かりやすい名前だった。しかし、伯父はその名を能登で生まれた"池月"にあやかって、銘酒"池月"にすると言う。
私は能登正宗のままがいいと思っていた。酒の名が池月だと、何で池月なのか、誰も名馬池月が能登の産とは知らない。その説明をしなければならない。だから、能登正宗のままでいいと思った。しかし、伯父は池月に拘った。銘酒池月には、そのような名前の由来がある。
私の売りは、”度厚かましくても嫌われない(と私が勝手に思っている)”独特のキャラだ。中能登の皆さんと親しくなってくると、皆さん、私の事情をお分かりいただいて、ご協力を惜しまずにサポートしてくださる。
”能登はやさしや土までも”
半世紀のブランクはあるが、これも祖父母や父のおかげでもある。自然体で、中能登町の皆さんの懐の中にスムーズに入っていくことができている。ありがたいことだ。
今朝の能登は寒い。昨日の北國新聞のヒートショックの記事のこともあり、いつものパターン(3時前に起きて朝風呂に浸かってから仕事をする)は厳禁として、7時になって風呂に浸かった。勿論、お湯のシャワーで風呂場を暖めてから浸かった。これは東京でも徹底しよう。何はともあれ、御身大切だ。
[ 能登の里山里海について ]
「能登の里山里海」は、日本列島のほぼ中央に位置する石川県の北部、日本海に突き出た能登半島の4市5町に広がっています。2011年6月、新潟県佐渡市の「トキと共生する佐渡の里山」とともに、国連食糧農業機関(FAO)により、日本で初めて世界農業遺産に認定されました。
[ 世界農業遺産とは? ]
世界的に重要な農業地域を未来へ引き継いでいくため、国連食糧農業機関(FAO)により2002年に開始されました。伝統的な農林漁法、伝統技術、農村文化や景観、生物多様性などを構成要素とした「地域システム」を認定し保全することを目指しており、正式にはGlobally Important Agricultural Heritage Systems(GIAHS:ジアス)といいます。
中能登町は能登でただ一つの消滅可能性自治体ではない自治体ではあるが、残念ながら、現在は能登観光の観点では通過点の町になっている。里山であっても里海ではないからだ。
能登は里山里海と言っても、どうしても里海で売っているところがある。すなわち、海産物が売りなのだ。
能登の9市町の中で、中能登町だけが海がない自治体であり、里山ではあるが里海ではない。里海の海産物があって、里山の野菜や牛豚が活きてくる。どうしても、海がメインで里はサブの位置づけになる。
中能登町は、織物やかぶら寿司の原料であるかぶらの生産が売りとは言っても、その売りは表に出るものではなく裏方になっている。決して裏方が悪いわけではないが、それは中能登町の特産としてアピールするものにはなっていないことが問題なのだ。
OUEN Japan の役割は、その裏方のベースの上で、しっかりと中能登町を表舞台に引き出すことにある。
いろいろ町の皆さんと話す。そして、だんだんと打ち解けてくる。本音が出てくる。困っていること、町の課題をざっくばらんにお話しされる。
そのわけは、私がこの町に生まれたこともその一つだろう。また、私のオープンな、ざっくばらんな性格に依るところも大きいと思う。
とにかく、町の人たちと同じ目線になることだ。私が町の皆さんと同じ気持ちになること。町を愛すること。誰よりも愛すること。みんなが誰よりも町を愛することをすれば、町は明るく元気になる。
私は一面、半世紀の間、町を離れていたハンディキャップがあるが、逆に町の人たちが持っていない人脈という貴重な財産がある。そして、その財産は皆さん、心温かい人たち=人財である。それを町のためにフルに活かすことだ。
少しずつ、先が明るくなってきた。
決して、謙虚と感謝の心を忘れてはいけない。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)