人間として第一等の資質は"沈思黙考"→"深沈厚重"
今週は、12日(月)が山の日の祝日、13日(火)〜16日(金)がお盆の4日間(それも16日は台風7号の関東襲来)、続く17日(土)〜18日(日)は連休と、私には珍しい事務所漬けで読書三昧、沈思黙考の1週間になりそうだ。こんなに人とお会いしない1週間は珍しい。
小宮一慶さんが、「稲盛和夫の遺した教訓」で書いていらしたが、稲盛和夫さんも松下幸之助さんもお二人ともえらい"せっかち"だったとか。私もそう思う。
私は、お二人のような偉大な哲人経営者には及ぶべくもない凡人ではあるが、この"せっかち"のところだけは勝るとも劣らないと思う。
ただ私との違いは、彼らがその"せっかち"をきちっとコントロールすることができたということ、万が一できなかった場合は、"反省"をして素直な心で失礼の段を相手にお詫びされたということだろう。お詫びされなくとも相手がお二人の情のあるお心を察することができる行動をなさったということだろう。
お二人のような雲上人でそのようなご配慮をされる人は果たしてどれだけいらっしゃるだろうか。
私は瞬間湯沸器のようなところがあって、なかなかグッと我慢をすることができない。
若い時なら若気の至りで許されることもあるのだろうが、古稀を過ぎた老人になってそんなことをしていたら、それは裏表のないわかりやすい人間と思われることはあっても、"できた人間"とは決して思われることはない。そして、人は私の周りに集まっては来てくれはしない。
グッと我慢をするということなのだが、グッと我慢というより、自然体ですぐ反応することはしない、カップヌードルではないが、たった3分待つことなのだ。それができるようになったら半日待つこと。それが一日、二日、一週間くらいは待つことができる人間になることだ。
そうすれば、自分の至らなさが分かることだろうし、目先の損得ではなく、中長期の損得が分かる。前者の損得は単なる目に見える利害であるが、後者は人間としての成長の意味の損得だ。
古稀を過ぎて、漸く、論語の"従心"の意味が分かってきた。
従心とは、「心の 欲するところに従えども矩を踰えず」、すなわち、「自分の心に思うことをそのまま行なっても、まったく道徳の規範から外れることがない」という意味だ。
メールでも、書面でも、口頭でも、単なる事務・事実を伝えることは、沈思黙考することではない。すぐに対応することが大切だ。それがトロい人がいるが、それだけでその人は信頼を失ってしまう。この場合はせっかちであることが何より大事だと思う。
しかし、肝腎要のことはそれではいけない。沈思黙考して、何度も何度も推敲することだ。
そこで今まで見えていなかったものが見えてくることがある。人生であるべきことが見えてくる。一生を懸けてブレない生き方をしようと思う、そのブレない生き方がより確信にまで高まってくる。
中国明代の哲学者、呂新吾は「呻吟語」で述べている。
深沈厚重は是れ第一等の資質
磊落豪雄は是れ第ニ等の資質
聡明才弁は是れ第三等の資質
まず人間として一番大切なこと、人がその人の周りに集まってくる人になるには、磊落豪雄や聡明才弁よりももっと大切な資質は、深沈厚重なのだと。
深沈厚重とは、さっき会ったのにまた会いたいと思わせるような余韻の残る人であり、厚みのある温かさは
人を惹きつける。どっしりとして重みのある発言は人を安心させる。
私にはそれが欠けている。ただ裏表のない真っ直ぐで正直な人間が人を惹きつけるのではない。その要素を底辺に持って、深沈厚重な人間になることだ。沈思黙考する時間を持って、よく推敲して言葉を発することだ。
沈思黙考が不得手であるからと言って、これを得手の人にお任せすることは、たとえその人が信頼に足る人であってもできることではない。
私の人間性に関することであるからだ。私自身のことだからだ。これだけは、私が沈思黙考することなのだ。そして、人間性を高めることだ。さすれば、たくさんの人が私の周りに集まってきてくれるだろう。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)