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お盆に思う②

お盆は、先祖の供養と一家の健康・安全を祈る日本の大切な行事のひとつだ。
素直に、今まで生かされてきた我が来し方を振り返り、これからの我が行く末が幸せでありますようにと祈る時間だ。
そして、天から与えられたミッションを果たすことができるように、そのために、同じく天から与えられた得手を磨き続けることを誓う時間であろう。

昨日(8.13)の入り盆は、妻と二人で、四ツ谷の笹寺の境内にある義父と叔母が眠っているお墓にお参りした。

長善寺(笹寺)は、天正3年(1575年)、甲斐の武田家家臣・高坂弾正がこの地に草庵を結んだことを起源とします。徳川家とのつながりも深く、江戸時代より笹寺の愛称で親しまれています。
交通アクセスは、東京メトロ丸ノ内線「四谷3丁目」駅から徒歩約5分。駐車場は約12台収容できます。

本日(8.14)は、毎朝8時20分から南麻布了聞で執り行われている福井住職による朝のお勤めに参加して、先祖を偲ぶ一日にしようと思う。

[なぜ、都市型納骨堂なのか?]

私は古稀になる前に、了聞にて終の住処を求めた。いわゆる、"都市型納骨堂"を買い求めた。
生まれ育った中能登町には、北陸新幹線が開業して4時間あまりで行くことができるようになったが、そうは言っても気軽に行くことはできるところではない。私がそうなのだから、妻子、孫たちはなおさらだ。

そんなことで、能登から東京に先祖代々の墓を移そうと考えていた。いわゆる墓仕舞いだ。と言っても、自宅の近くにある青山霊園は求めるには敷居が高い。多摩霊園は東京かもしれないが、私の感覚では、さまざまな観点で能登とさほど変わらない遠さだ。わざわざ能登から移す意味がない。
そんなことで、自宅から徒歩20分くらいだろうか、六本木の先の南麻布了聞に都市型納骨堂を求めたのだ。

そして、2年前、古稀になったことを機に、了聞にて生前葬を執り行った(第二の人生の出陣式は、青山の自宅から徒歩5分の日本青年館で行なった。日本青年館は私の青春を燃やした明治神宮球場の向かいということもある)。

能登半島地震があって墓仕舞いをすることはやめようと思う。これからの人口減少社会における地方創生のためには、二拠点居住で地方を元気にすることが求められていると思う。私も東京と能登の二拠点居住を考えているが、そのこともあり、私の終の住処も東京(南麻布)と能登(中能登町)の二拠点居住にしようと思う。

[なぜ生前葬&出陣式を執り行ったのか?]

古稀になって一旦人生をリセットして、新しい人生をスタートしたかった。
人生100年時代、古稀になってそれからの人生はあと30年ある。それが余生とは"よせよせ"ではないか。

サラリーマンには定年がある。私が社会人になった頃は55歳だった。今は70歳定年の時代だろう。それでも70歳で定年になってしまう。

私が銀行に入社した時の社長ほか役員の方々は60歳前後だったと思うが、それは私には彼らは年寄りくさく見えた。
今の私は彼らより10歳は年寄りなのだろう。そんな年寄りになったのだ。人生は短く、あっという間に過ぎ去っていくと思うが、気持ちは若い時のままだ。いや、それ以上、地に足を着けて、現実を見据えて、心は燃えている。
しかし、古稀にもなると、人は千差万別。私の高校・大学時代や銀行時代の同期たちは、少なからずもう老境の世界に生きている人がいる。
それに反して、芸能人は驚くほど皆若い。最近、NHKラジオ深夜便で池畑慎之介さん(ピーター)のインタビューを聞いたが、彼は風体もそうだが気持ちも青春真っ只中という感じがする。
私と同じ昭和27年(辰年)生まれの芸能人は、ピーターをはじめ、松坂慶子さん、小柳ルミ子さん、風吹ジュンさん、水谷豊さん、中島みゆきさん、さだまさしさん、草刈正雄さん、吉幾三さん、等々。
皆さん、それぞれ、身体にガタが来ているところもあるのだろうが、心身共に若い(ように思える)。
やはり、若さの秘密は"仕事"なんだろう。仕事が特効薬ということだ。そして、人生にあえて区切りをつけることをしないのだろう。人生の定年がないのだ。

私の場合、余生という意味での定年ではなく、二毛作の意味での仕切りをつけるということだ。
最初の米作りを終え、次は同じ米作りではなく野菜作り、果物作り、麦作りと言うことだ。

あと少なくとも、100歳現役の二毛作のスタートの生前葬&出陣式なのだ。
そんなことを、今は亡き祖父母と父に宣言するお盆である。

このお盆にもう一つ、墓参りをするところがある。それは、青山霊園に眠っていらっしゃる安藤明さんのお墓だ。
安藤明さんは、私が愛娘のように思っている安藤裕美さん(日欧フーズ副社長。西櫻亭と大安くらぶ経営)のお祖父様だ。彼の命日は、終戦記念日と同じ、8月15日だ。

[安藤明 あんどう-あきら]

1901-1962
昭和時代の実業家

明治34年2月15日生まれ。昭和11年土建業大安(だいあん)組を設立。戦時中は軍需品輸送や飛行場建設などを手がけ,終戦直後にはマッカーサー来日にそなえて厚木飛行場を整備。昭和37年8月15日死去。61歳。東京出身。

安藤明さんは、知る人ぞ知る、"昭和の快男児、日本を救った国士"だ。

私も身の丈にあった日本の国士になるべく、これからの青春を燃やして生きていきたい。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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