人生秋の陣、いざ出陣!!!
今朝3時の気温は26度だ。熱帯夜が続く。ラジオの天気予報では今日の東京の最高気温は35度、猛暑日だとか。もう暑くて嫌になるが、来週の19日から最高気温は30度を下回るらしい。やっと初秋の到来だ。
あと1週間足らずの辛抱だ。あと1月ではない。あと1週間だ。それくらいなら、「グッと我慢をしよう」と我慢ができる。先が明るくなる。
人生もそんなもの。先が見えると思うと、グッと我慢ができる。グッと我慢の苦を楽しむ気持ちになる。
先が見えないと、意気消沈してしまって、人生ギブアップということになる。正気が失くなってしまう。
私が生前葬&出陣式で生まれ変わって、早いもので2年3ヶ月が経った。
人生の区切りをつけたものの、まだまだ第一生の暗中模索を引きずっていたこともあって、七転八倒の日々が続いていた。
能登半島地震があって、潜在化していた"ふるさと能登"への想いが顕在化した。
「能登の創再生の応援を第二生のミッションにしよう」と思った。
いや、「能登の創再生の応援こそが、天が私に与え給うたミッションなのだ」と能登半島地震が私に気付かせてくれたのだ。
それも、3月から、月に2泊3日、中能登町を訪問し続けていて、少しづつその想いが顕在化してきた。私は先を読む力を持ち合わせていない。
そして、半年の助走期間を経て、10月から本格稼働に入る。
東山魁夷の"道"のポスターを事務所の壁に貼って、
「大地を真っ直ぐに貫いている道の先には、私に与えられた能登創再生の理想郷があるのだ」
と思うと、揺るがない決意が一層堅固になっていく。
まずは中能登町から、並行して中能登地域へ拡げる。加えて県を越えて富山県氷見市を含む能登半島南部の創再生だ。そして、その延長で奥能登地域へ拡げる。
私一人ではできることは微々たるものだ。その足らずをカバーしてくれる人であり、私の想いを理解しその具体化に向けて進むための強力なパートナーが副団長の黄さんだ。
"類は友を呼ぶ"ではないが、人生観は不思議なほど似通っている。ただ、私にない経営者感覚、ビジネスセンスを持っている。私の凹んでいるところを埋めてくれる。彼女にとっても、私のとんがっているところは何かお役に立つだろう。
同じ志を持って、凸凹を埋め合いミッションを果たすのだ。そして、多くの仲間たちのご協力を得て、それぞれの夢を果たすために協働しよう。
北原謙二が歌った「ふるさとのはなしをしよう」は、昭和40年のヒット曲だ。私が中学1年生の頃だ。
ふるさとがあるということは、ふるさとを思い出すということは、そしてふるさとを熱く想うことは、人間を幸せにする。
私がOUEN blogで、3月に私のふるさと能登に帰ることを書いた時に、彼女はそれを読んで、「私も能登に連れて行ってくれませんか」と私に言った。
彼女は、能登に縁もゆかりもない外国の人だ。私は、「どうして能登に?」と問い返したところ、彼女はその理由を包み隠さず私に話した。
彼女は、「山が好きだ」と言う。
長野県伊那市高遠が彼女の住民票の登録地だ。東京の家は仕事のために賃借している。
彼女は会社を経営していて、社員の皆んなと大好きな登山をした。北アルプス登山の時、一人の社員が滑落して、救助のために自衛隊や富山県警が出動した。その甲斐あってその社員は一命を取り留めた。
そのためにかかった費用を払う覚悟でいたものの、払う必要はないとの回答だ。「その想いがおありならば、日本のために社会貢献をしてください」とのこと。
そんなことで、「団長のふるさと能登の創生のために尽くしたいと思う」と。
ありがたい。心が美しい。人を思い遣る"恕の心"を持っている人だ。
私は言った。
「ありがとう。それでは、OUEN Japanの副団長になってください。私一人の力では、想いはあってもできることは微々たるものだ。黄さんは、私にないものをいっぱい持っている。よろしくお願いします」
そんなわけで、私のふるさと能登へ二人三脚の弥次喜多道中と相成った。
私は、祖父の青春を燃やした旅順二〇三高地を元気なうちに一度訪ねてみたいとずっと思っていた。
今、旅順は大連の一部だ。大連市旅順区に二〇三高地がある。
彼女の生まれたところは哈爾濱(ハルビン)。哈爾濱に生まれて、日本に憧れて大連に出てきた。
「団長、大連に行きませんか。おじいさんの二〇三高地にも行きましょう。私の生まれたふるさとの哈爾濱にも行きませんか」
そんなことで、大連・旅順、哈爾濱の旧満州の旅になったものだ。
ふるさとのはなしをしよう。
ふるさとのはなしをする。そしてお互いのふるさとを訪れることで、絆は一層強まるものだ。
戦いはこれからだ。
人生秋の陣、いざ出陣!!!
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)