これからの"OUEN Japanのありよう"を考える
私が年末年始に人さまに集まっていただいて懇親会(それを私は、忘年会→望年会→信念会と表していた)を催すことをし始めたのは、個人会社を立ち上げた55歳くらいからだから早いもので15年が経つ。
当初は10名前後だったが、それが50名、80名、100名、150名になって、今年は183名になった。このまま行くと200名は楽に超えるだろう。
ずっと続けていた"望年会"は、コロナ禍で、中止を余儀なくされていた。
コロナ禍が明け、一昨年末に望年会を復活しようと思ったのだが、予約のタイミングが遅かったため、"信念会"にせざるを得なくなった。
私はいつも自分で決めているようで、何事も、事は成り行き任せに決まっていくように感じている。
それは神仏か天か、そのような"サムシンググレート"の存在があって、そのように私を仕向けさせているのだと思うのだ。
すなわち、[OUEN 信念会]はせざるを得なかったのではなく、サムシンググレートが望年会ではなく、この機会に信念会にチェンジするのがいいと私に指示されたのだと思うのだ。そう思うと、心が落ち着くということもある。
そんなことで、昨年から1月中旬の木曜日に信念会を開催することにしている。昨年は26日(木)。今年は18日(木)。来年は16日(木)の予定だ。
今回も、信念会は、前回同様に外苑前の日本青年館ホテルで開催した。着席形式で20卓。1卓10名がアッパーだから、200名まで。それで183名になった。
OUEN Japan はイコール私個人のようなものだから、私個人が主催するパーティだ。第1部は講演会、第2部は交流会・名刺交換会だが、第2部は私が会場を走り回ることになる。
乾杯の時のビール一杯だけしか口に入れない。飲食はどうでもいいが、私個人の会はこの人数が限界だ(と思った)。
会は盛会だったと思う。第1部の株式会社 Flora CEO アンナ・クレシェンコ氏の講演会も評価が高かったし、第2部の交流会・名刺交換会も活性化していた。私の思い込みかもしれないが、前回にも増して盛り上がっていたように思う。
私はこの会は意味があるな、長く続けていくべきだな、人のお役に立つ会だな、と思った。
特に、今回はその感を強く持った。前回までとはステージが一段階アップしたように思った。それは私自身の変化もある。自分がいうのも気が引けるが、私自身の成長ということもある。
"生きる"という意味が分かってきつつある。"生きて死ぬ"ということが少しずつ分かってきつつある。
元日に、能登半島地震でふるさと能登が壊滅的状況になってしまったこともそれに輪をかけている。
"生と死を自分ごと"として、近未来のこととして考えるのだ。
"自分のためは人のため、人のためは自分のため"が、生きていく哲学のベースだが、同じように、"自分のことは人のこと、人のことは自分のこと"を血肉にしていくことが生きるということなのだ。
人生100年時代だ。それ以上生きてもせいぜい120年が限界だろう。
私は、人のために生きるのであれば、ピンピンでなければ意味はないと思っているから、ピンピンでなくて長生きすることは、私の哲学に反しているだろうと思う。やはりピンピンで仕事をして、そしてコロリとこの世とおさらばしたい。
今は、OUEN Japan は小林博重イコールだが、それでいいのかと思う。
今はそれでいいと思うが、ピンピンの時に先を見据えて、OUEN Japan の相続(NPOだから現実の資産はない。その思いを相続するのだ。その思いとは、人と人をつないで、人を幸せにするということだ)を考えておく必要があるのではないか。
盛和塾は稲盛和夫さんが塾長で一代で終わった。それは、稲盛和夫さんの思想やお人柄を慕って、多くの中小企業経営者が集まってきたから一代限りは当然だ。決して稲盛和夫さんに替わる人はいないからだ。しかし、盛和塾で教えていただいた思想は私たち熟成に受け継がれていく。心の中で生き続けていっている。
しかし、OUEN Japan というNPOは盛和塾とは同じではない。私はカリスマではなく、稲盛さんの思いを小林流で表現しようと思うものがOUEN Japan なので、その思いはOUEN Japan というNPO法人が、私が亡きあとでも、"人のために"と言う思いを持って永続していくべきなのではないかとも思う。
OUEN Japan は、私とともにこの世から消え去ることは良しとしてはいけないのではないか。
私の思いを実現しようと思い行動することと並行して、相続のための組織づくりをじっくりと考えてみよう。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)