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能登の祭りを守り、後世に繋いでいく

10月27日(日)に、鵜様道中の宿(中能登町良川)の裏庭にて、「氣多鵜祭り(うまつり)の習俗」として国重要無形民俗文化財の指定を受けた25周年の記念イベントがあった。
道端弘子さん(「鵜様道中の宿 保存会」事務局長)から、そのご報告をいただいた。


オープニングとして、 中能登町中学校吹奏楽部演奏と鹿西高校吹奏楽部の演奏


オープニングとして、 中能登町中学校吹奏楽部演奏と鹿西高校吹奏楽部の演奏


25周年記念のお祝いの雅楽演奏


25周年記念のお祝いの雅楽演奏


舞楽


舞楽


大昔、邑知潟に毒蛇がおり、村人が困り果て大国主命が鵜の手助けにより無事退治したことが庶民に語りつがれてきた民話がある。
『古事記』にも櫛八玉神が鵜になって海底に入り天真魚咋を大国主命に献じたと記されており、この「氣多大社の鵜祭り」は平安時代の頃より続いていると推測されている。

鵜様道中は、毎年12月に、七尾市の鵜浦(うのうら)で生け捕りされた鵜様を鵜捕部(うとりべ)が、「ウットリベー、ウットリベー」と声を発しながら、2泊3日かけて羽咋市(能登國一宮)の氣多大社まで、約40㎞を2泊3日かけて、徒歩にて運ぶ。
鵜浦を出て、12月12日の1泊目が七尾市泊、13日の2泊目の宿泊先が「鵜様道中の宿」の中能登町良川の鵜家本家である。
鵜祭は12月16日早朝3時から氣多大社にて執り行われる。

能登半島は、年がら年中どこかしらで祭が行われている地方である。
その中でも、氣多の鵜祭は”能登の奇祭”と言われているそうな。

私は15歳まで能登に住んでいたが、能登の祭りはせいぜい七尾の青柏祭や能登の各地で行われるキリコ祭りくらいしか知らなかった。
それでも幼少を振り返ってみると、春秋には、町の在所の至るところに祭があった。今日はこちらの在所、明日はあちらの在所、明後日はその隣の在所といった風で、同じ町村でも町民は、自分の在所の祭の時は、他の在所の親類や親しい人を自宅に呼んで酒肴を振る舞い、他の在所の祭の時は、呼ばれて酒肴を振る舞われ、皆んな1カ月は祭に堪能していた。
中能登町でも、至る所に神社があり、それぞれの祭りがあるらしい(3月から毎月能登に帰ってみてそのことを知り、「私は、生まれ育った能登のことを何も知らない」と、少し恥ずかしく思っている)。
私はそれが日本国中どこでもそんなものだと思っていたが、能登は特別なんだ、他の地方はそうでもないらしい。
”能登のトトらく”の男衆が、春と秋に、いつもより輪をかけて、ほとんど仕事という仕事をしない1カ月があるのは能登くらいなのかも知れない(私はOUEN塾で数年に亙り福岡に出向いていたが、福岡でも博多祇園山笠の時は男の人はほとんど仕事をしないと聞いた。かつて北島三郎さんの「まつり」がヒットしたが、多かれ少なかれ、日本人(特に男)は集まって祭をすることが大好きな国民らしい)。
そんなことで、何はともあれ、男は女に感謝して人生を生きることだ。

男は祭りを そうさ
かついで 生きてきた
山の神 海の神
今年も本当に ありがとう
白い褌(ふんどし) ひきしめた
裸若衆に 雪が舞う
祭りだ 祭りだ 祭りだ 豊年祭り
土の匂いの しみこんだ
倅その手が 宝物

男は祭りで そうさ
男を みがくんだ
山の神 海の神
いのちを本当に ありがとう
船に五色の 旗をたて
海の男が 風を切る
祭りだ 祭りだ 祭りだ 大漁祭り
見ろよ真っ赤な 陽が昇る
倅 一番船をこげ

燃えろよ 涙と汗こそ 男のロマン
俺もどんとまた 生きてやる
これが日本の 祭りだよ

能登の復旧・復興、創生を応援するのが私のミッションであり、そしてOUEN Japan のミッションであるならば、このような“能登らしい祭り”、”能登でしかない祭り”を守っていくことだ。それをあらゆる手段を使って守っていくことが、私やOUEN Japan に課せられている。
能登の歴史、伝統、文化、風習、里山・里海、人々の心を後世に繋いでいくことだ。繋いでいくことで、それらは永久に継がれていくのだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)






その1 後世への伝承活動のため オープニングとして 中能登町中学校吹奏楽部演奏と鹿西高校
   吹奏楽部演奏の写真です。
その2 25周年記念のお祝いの 雅楽演奏の写真
その3 舞楽の様子

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