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魚を放す

誰も見ていないだろう、と思いながら書くのが、いちばん良いのだと気付く。そもそも私は文章をちゃんと書く練習をしたことがなければ、そういう指南書だって読んだことがない。頭も全然良くないし、常識もない(らしい)。

自分でときどき読み返してみても、また、他の人の書いた文章と比較しても、なんて幼稚な文章を書くんだろう、この人は。と思ってしまう。透けて見える自尊心が気持ち悪くて嫌になるけど、結局同じようなものしか書けない。私は私である限りは仕方がないっぽい。

自分がもっとこうできたなら、あのときこうしていたら、という考えは、結局いまの自分の否定になるらしい。過去にあれこれした自分をそのまま受け止めて、諦めて、今の自分でいるのだ。あーあ、ウクレレがやってみたい。好きなゲームのBGMをピアノで弾きたい。ラッコに会いに行きたい。髪を切りたい。車だって運転してみたい。

なんにも、人の目を気にしなければきっとやりたいことなんていっぱいあって、そういう自分の正直な感情が、こんな夜中の一人きりの部屋でしか見えてこない。明るくて人が居るうちは全てそっちに気が向いてしまって、私をいちばん遠ざけてしまう。



気分が上向いている予感がする。今のこの瞬間だけなんだろう、それが悲しい。すぐに萎んでしまうこの軽やかさが、ずっと続く人生だったら、絶対絶対幸せだから、眠るのが勿体なかった。



「推敲した文章を書こう」なんてのは辞めることにした。以前の自分がどうしていたかは忘れたけれど、文章にも賞味期限があることを実感したからだ。2、3日置いていたら、それはもう食べられない。

スマホのメモとnoteの下書きには、賞味期限切れになったまま捨てられない文章が積み重なっている。腐っていくだけの言葉がかわいそうで、魚を川に放す感覚でnoteを投稿している。だけどこれは本当に魚なのか?排泄と同じだったら嫌だな。

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