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頑張って生きるのは、誰のためだろう
「もう人生終わりがいいのに、まだ続くのがつらい」という思考に囚われていたら、私じゃなくて祖母の生命が危うくなってしまった。
今月頭から体調を崩した祖母は、みるみるうちに弱っていった。遠方に住んでいるため、テレビ電話で時々様子は見るものの、最後に会ったのは2年半前だった。その頃はまだピンピンしていて、ちょっとやそっとじゃ倒れないように見えた。
祖母はあまりお喋りな方ではなかったし、表情も豊かではない。あんまり何を考えているのか分からない感じの人だ。
小さい頃に特大のおにぎりを握ってくれたことはよく覚えている。
ここ数年は会うたびに、彼氏の有無を聞かれるようになった。祖母は祖父と結婚して、幸せになれたらしい。そんなことを夏の暑い日、祖母に日傘を傾けながら聞いた。
祖母はよく「じいちゃんを見送ってから逝く」と言っていたけれど、床に臥せる少し前くらいから、要約すると「いつ死んでもいい」みたいなことを言うようになった。
そんな祖母がぼろぼろの姿で病室のベッドに沈む姿を見て、私は何と言えば良いか分からなくなった。「がんばってね」と掛ける声が聞こえた。私もそれに倣うべきだ。
生に消極的な人間を前にしても「がんばれ」以外に言えることがない。脳はともかく、体は酸素を求めて息を吸い、口を開く。それがただの本能だったとしても。
そんな姿を見て「もうがんばらなくていい」なんて言えるはずがなかった。
生きるのはきっと、遺される誰かのためだ。
残されるのはつらい。当たり前だけど、でも大切な人を悲しませないために、最後まで頑張って生きなくてはいけないんだろう。
自ら命を絶ったら、「もっとこうしていればよかった」「話を聞くべきだった」と誰かの心にずっと消えない影を落とすことになる。
命を絶つ場所が自宅であれば、家族はもうそこに住み続けられないだろう。電車に飛び込めば、多額の請求がされるだろう。ビルから飛び降りれば、誰かにぶつかるかも。
そんなことを冷静に考えられているうちは、きっと死なない。人生は続く。自分のためじゃ生きられない、だけど理由なんかなんだっていい。結果が同じならどちらだって。
「もう死んでもいい」
それが本当なのか確かめる術を私たちは知らない。ただそこに言葉が発せられたという事実が残るのみだ。
死を恐れて自分に言い聞かせた言葉なのか、本心からなのか。分かりようがないから、やっぱり我慢なんかしないで、思いは曲げずに口に出さなくてはいけない。
言い続けたことは本当になる。自分の中では嘘のままでも、周りにそうと認識されていることは、本当と同じだ。
まだ祖母は生きている。私は知らないことがいっぱいある。聞いてみたいことも。
生きてほしいとは思う。残された人を思えば。それでも、もし自分の立場なら、これからの回復の見込みだとか、これ以上の苦痛が続く可能性がある人生が、ここで途切れたっていいんじゃないかと思ってしまった。
私は薄情だろうか。ただ純粋に、生きて欲しいと願えなかった。正解なんかなくて、ずっと分かることもない。
たくさんの管を繋がれて、喋れなくなってご飯も食べられなくなって。ぐったりした姿を見ていると涙が出た。
「ばあちゃん、私だよ」と、それしか伝えられなかった。がんばれの一言も言ってあげられない。
頑張らないといけないのか、分からなかった。