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どうして春は、「あけぼの」なのか?


▶「春はあけぼの」がいい・・・と訳してはダメなわけ

 清少納言は、決して春はあけぼの「がいい」とは言っていないのに、私たちは、ついつい「いい」と補ってしまいます(学校では、文末に「をかし」が略されていると教わるはずです)。
 でもそれは、私たちが「あけぼの」よりも、「春」が大事と思っているからではないでしょうか。
 つまりはこれも、先入観です。

 「春は、あけぼの」という構文をそのままかいせば、
   「春 イコール あけぼの」
……ということになるはずです。

 それは決して「春>あけぼの」ではありません。仮に「春>あけぼの」というのが私たちの常識、つまり固定観念なのだとすれば、「春=あけぼの」というのはこの際、「春<あけぼの」くらいのインパクトを持った図式であるというべきでしょう。

 発想の大転換ですね。そして「春は、あけぼの」なのです。

《春という季節は、あけぼのという美しいひとときのうちに象徴される。》

 
言い換えるなら、日々繰り返される「あけぼの」というひとときを、ぞんんぶんに、もっともよく味わえるのが「春」だということ。

 「夏は夜」「秋は夕暮」「冬はつとめて(早朝)」というのもみな同じです。清少納言は、「冬は早朝が大好きだ!(いい!)」と言っているわけではありません。日々繰り返される「朝」というひとときの、その鮮烈さをもっともよく味わえるのが、「冬」だと言っているのです。

 冬はつとめて「がいい」と補ってしまったとたんに、理解できなくなる主題です。大切なのは季節としての「冬」よりも、ただ一刻の「つとめて」のほうであったのですから。

▶人間主体の『枕草子』

 清少納言は、春夏秋冬、大きな時の流れとしての「季節」などより、もっと大事なものとして、「あけぼの」「夜」「夕暮」「早朝」という日々繰り返される「ひととき」を『枕草子』の最初の段に掲げたのです。
 私たちの命が刻み出す一刻一刻として、「時」とは、生きとし生けるものの「命」とともにある、私たちの存在そのもの。
 清少納言は、また別の段で「ただ過ぎに過ぐるもの」として「春、夏、秋、冬」を挙げていますが、それにしてなお、「春はあけぼの」であるのです。
 『枕草子』は人間主体の作品として、随想文学のさきがけでした。


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