死ぬまで続く”こころの発達”
心とはどんなカタチをしているのでしょう?
心はどうやって作られるのでしょう?
私たちは、この目に見えない「こころ」の存在をとても大切に思い、そして、子どもの心を、丁寧に育てていきたいと思っています。
急速に高まる”心育て”への関心。
心はどう発達していくものなのか少しだけ掘り下げてみたいと思います。
人は死ぬまで心を発達させる
こころの発達は、何も子ども時代のことを指すのではありません。
アメリカの発達心理学・精神分析学者のエリク・H・エリクソンは、「人は死ぬまで発達するものである」といいました。
そして、年齢ごとに発達課題を挙げて、健全な発達を遂げてしあわせな人生を紡いでいくためには、この課題をちゃんと達成させなければならないと提起したのです。
それがこちらになります。
各発達段階には「ポジティブな傾向」と「ネガティブな傾向」があり、互いにぶつかり合いながら葛藤する中で、人間のたくましさと深さが生まれてくると考えたのです。
ここで大切なのは【ポジとネガが互いにぶつかり合い葛藤はするものの、必ず「ポジティブな傾向」を上回らせるように結果を導くこと】
発達段階に区切って、もう少し細かく説明していきますね。
乳児期の発達課題
自分の誕生を心待ちにしていた大人から、愛情のこもった世話をしてもらうことで、自分は「愛される価値がある存在」であり、この世の中は信頼に満ちていると感じることが大切になります。
時々、泣いてもすぐに応じてもらえないこともありますが、日常の多くは、優しくケアされるという経験を積んでいきます。
その中で培われた「基本的信頼感」は、後の人間関係においても、親密で信頼できる人間関係を築いていく土台となっていきます。
幼児期前期の発達課題
立って移動ができるようになり、全身の筋肉が発達して、トイレトレーニングをスタートさせる時期です。
上手に自分の体を取り扱えることができればほめられますが、失敗するとダメだといわれる経験が必要になります。
そうなると、好きなようにしていいと当然のように思っていたことが、そうではないことを知り、これまでの在り方に疑問を感じたり、恥ずかしさを体験することが増えますよね。
ところが、失敗しながらも自分の体をうまくコントロールできるようになると、自信を持つようになり、自分の意思でいろんな挑戦を始めていくようになるのです。
幼児期後期の発達課題
できることが増えていき、積極性も増していきますが、ついやり過ぎてしまうことで羽目を外すことも多くなり、罪悪感が襲ってくるという葛藤が起こります。
この時期に気をつけることは、積極性を潰してしまうほどの罪悪感を抱かせないこと。
つまり、強すぎる・多すぎる叱責や禁止を与えないということ。
(全く与えないのも葛藤が起きないのでよくありません→技術が必要)
そうすれば、目的意識を持って、いろんなことに取り組んでいくようになります。
学童期の発達課題
生きていくために必要な知識や技術の習得が一気に進む時期。
大人の介入が減り、子ども同士の集団の中で様々な人間関係を体験していくようになりますが、劣等感を抱くことも出てきます。
ところが、コツコツと積み上げていく勤勉性を身につけていくことで、成果を手にすることができることを学習。
「やればできる」という自己効力感を手に入れていくようになります。
青年期の発達課題
第二次性徴を迎え、次第に自己内省が進み、自分は何が好きで、どんな人間かを模索するようになり、試行錯誤を繰り返す中で、価値観や人生観を深めていきます。
そして、自分に合った職業選択を行い、社会の一員としてどう自分を位置付けていくかを徐々に定めていきます。
成人期の発達課題
自分とは育った環境が違う、感じ方、考え方も違う者同士が近づき、一体感を抱く中で、強い絆を築いていきます。
自分以上に相手のことを想い、心からの愛という大切なものを差し出すことで、与える喜びや深い幸せを体感していきます。
壮年期の発達課題
自分さえよければいいというのではなく、次の時代を担う人たちのために、出来ることをしたいと考えるようになります。
子どもを育てたり、社会的な活動や、知的で創造的な活動も含みます。
社会が少しでもよくなるために、貢献していきたいと考えるのです。
もし自分のことだけを考えるようであれば、人格の成熟は止まり、幼さを残したまま停滞していきます。
老年期の発達課題
人生を完成させる大切な時期。
これまでの人生を振り返り、いい人生だったと全てを受け入れ、肯定することで、こころの平安や円熟さを手に入れていきます。
もしそうでなければ、絶望に満ちた最期を迎えることになります。
人生の締めくくりをどう迎えるかによって、英知を手にできるかが決まります。
こころを発達させるということは、人生をかけた大事業だということがわかりますね。
そして、人と関わり合うということは、相手にも影響を与え、常に相手のこころの発達を促し、自らの課題に向き合い続けることなんだ、ということもわかります。
相手が子どもであれば、親は常に先行く見本であり続けなければなりません。
見本といっても、決してかっこいい姿を見せる必要はないんです。
不格好でもいいのです。
ただ一生懸命さは大事。
何に一生懸命かというと、誠実に自分と向き合い、自分を成長させようと一生懸命に努力している姿を見せることで、子どもは感動するのです。
こころの有り様は、演じてカッコつけたとしても、必ずほころびが出てきます。
特に子どもは、敏感にその嘘っぽさを見抜きます。
だから、正直であること、誠実であることが何より大切なのです。
こころの成熟
年齢を重ねる中で、問われてくるのは「こころの成熟」です。
こころの成熟とは、何も完成された状態を指すわけではありません。
そもそも、心に完成されたカタチはありませんからね。
そうではなく、自分のこころの発達課題に真摯に向き合い続けることができるか否かを指すのです。
年をとっても、役職についていても、地位や名声を手に入れていたとしても、自分のこころが満たされることばかりに関心を向けているようでは、成熟とは程遠く、こころの発達は停滞しているといえます。
変化の激しさが加速する今の時代は、心の成熟が何よりも重視され、高い価値を持つ時代になります。
なぜなら、変化のスピードに反比例して、成熟を手に入れるために必要な環境が、急速に失われているからです。
成熟を支えるのは、困難なことに向き合い、乗り越えるたくましさと、変化を受け入れる柔軟さと、そして行動力。
尚且つ、最も重要なのは、自分さえよければいいという価値観とは正反対の、みんなも納得出来る、そして、互いを生かし合う関係を築いていくこと。
果たして、人はそんな強くて、深い信頼を築いていけるのでしょうか?
たびたび襲ってくる不信感を制して、人や社会を信じ切ることが出来るのでしょうか?
どちらか一方が、または、特定された人だけが覚悟して挑んでも、うまくいきません。
互いに成長し合う関係は、広がっていかないからです。
誰かを生かすことが、自分も生きることになる、という利他的精神を、人は一体どこまで発達させることができるのでしょう。
それには、シンプルに、こっちの方がいい、魅力的だ、心が満たされる、と思える仲間と集うことです。
そうやって、小さなムーブメントが、やがて大きなうねりを生み出すからです。
人の成熟さは見えにくいですが、少なくとも、老いていく時に、多くの人の手を借りながら生きなければならない時期を迎えた時に、露になることでしょう。
それは、何もしてあげることができなくなった自分が、それでも尚、人のために何が出来るかを考える成熟さです。
できることなら、両手を合わせてこうべを垂れ、「ありがとう」と素直に感謝できる成熟を手に入れたいと思います。
鶯千恭子(おうち きょうこ)