その反抗は私に向けられていた。反抗してでもコミュニケーションが取りたい。

子どもが反抗することってよくあることだと私は思ってました。

ごちそうさました、食器をシンクまで運ぶことになっているんですが、運ばないんですね。(今は運ぶ確率80%に向上!)

「食器運ぶの忘れてるよ〜」

と伝えても、まあ反抗する、する。

「あとでー」
「いまちょっとそっちに行けない」

何度も声かけても、一向に運ばないので、私も腹が立ってきて、感情的に怒ってしまい、子どもも泣く。誰も何も良いことない。

私は食器を自分で運んでほしい。

子どもも食器を運ばなければいけないのは、分かってる。

2人とも同じ方向を向いてるはずなのに、どうしてこじれてしまうのか。

反抗って、なんのためにするのか。反抗することで得られることってあるのでしょうか。考えてみました。


①指示には従わない!僕は自分で決めて行動する!

つまり、主権の奪還ができる。人には自分の行動を自分で決めたいという思い「主体性」があります。「お子さんにまだ習い事させてないの?」と他人に言われると、「うちの勝手でしょ!ほっといてよ!」と思うのと同じですね。


②親とコミュニケーションが取れる

コミュニケーションって……、全然楽しくないコミュニケーションですけど。「怒られる」というコミュニケーションでも取りたいものでしょうか。

私の考えですが、不適切な行動をして返ってくる反応って想像した通りになる。ほとんどね。

誰かを殴る→
「痛い!やめてよ!」

食器を運ばない→
「何回言われてるの!さっさと出来ないの?」

まぁ大体こんな感じ。

ところが、適切な行動は、その行動をとっても思った通りの反応が返ってくるとは限らないんです。

テストで95点取った→
頑張って勉強してたもんね。良かったね!

この反応を期待してたところに、

この5点がもったいない!次はもっとちゃんと見直ししなさい。

だったらどうですか。ガーーッカリでしょ。次のテストが80点だったら、もう絶対この人に見せたくないですよ。もっとヒドイ反応されるかもしれない。

適切な行動を取ってガッカリするくらいなら、不適切な行動をとって怒られる方がマシ。そういう考えなのかもしれません。

そこまでしても、私とコミュニケーションが取りたかったのかもと考えると、とてもとても申し訳ない気持ちになりました。指示して、出来ないことに怒ってばかりだったような気がします。情けない。

その反抗は、私に向けられている。怒っている間だけは、僕のこと見てくれるでしょ!?と、無意識のうちに思わせてしまっていたのかもしれません。

それから出来るだけ、「子どもが主体的に行動できるように」と工夫を凝らしました。指示しなくてもやらなきゃいけないことは、出来るようにね。

↑「○○やりなさい!」から「ふせんリスト、全部できたかな?」という声かけに変えられました。これだと主体性は奪っていない。

主体性を奪わない。子どもを信じて、何を決めてどう行動するかを任せる。

失敗したら、子ども自身が責任を取る。親は子どもの気持ちに共感して、またチャレンジできるように励ます。

そういう子育てを目指して、もがいています。

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志田 夏
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