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差別がなくならない理由
『差別』することを悪く捉える風潮がある。
当然のことである。
俺も、「差別」は悪いことだと思う。
ただし、俺のここで言う「差別」とは、以下の意味に沿うものである。
偏見などによって差をつけ、一方を他よりも価値の低いものとして扱うこと。
つまり、
「○○は、△△っぽいから、良くないね〜」
これが、「差別」である。
逆に言えば、
「○○は、△△だから、良くないね」
これは、差別ではない。
具体的な例を出してみよう。
「アフリカの人は、肌の色が黒い。
これは神から、人間の象徴である“理性”が与えられていないからである。
だから彼らは、人間ではない。」
これは、かつての欧州人の中での、黒人に対するイメージである。
実際にこういうイメージがヨーロッパで広まっていただなんて、なんとも恐ろしい話だ。
もちろん「理性がない」というのは根拠もない完全なるデタラメであり、
差別以外のなにものでもない。
ならば、この場合はどうだろう。
「中国人は、なにをするにもテキトーで、行動が雑だ。
だから中国人は嫌いだ。」
これは、どうだろう。
残念なことに、「中国人の行動が雑である」という傾向があることは否めない。
しかし、全員が全員、そうであるとは限らない。
それなのに、中国人全般を嫌うのは、差別だと言えよう。
ならば、どう言う状況が「差別でない」と言えるのだろう。
いや、そんな状況はおそらく、この世の中には存在しない。
差別することを否定してきたが、
誰か他人を嫌いになることは、人間として真っ当なことだと俺は思う。
それは、誰にでもあることだし、
そもそも「誰かが嫌いになること」を禁止する方法なんて
「洗脳」くらいしか思い浮かばない。
だから、わたしたちは誰かを嫌いになっても構わないのだ。
それを顕在化させなければ、それによって他人が傷つかなければ。
しかし、その「嫌いな人」と一部の条件が重なると言うだけで
「そいつも嫌いだ」ということは、やってはならない。
とある韓国人が奈良公園の鹿を蹴っ飛ばしたと言うだけで
「韓国人はみんな嫌いだ」というのは偏見だし、
とあるモンゴル人力士が張り手やエルボーを繰り出すような相撲をとっていると言うだけで
「モンゴル人力士はみんな嫌いだ」というのも偏見である。
さて、本題に戻ろう。
よく専門家たちは、差別をする人は
「自分に自信がないから他人を攻撃する」「自分の味方をつけるために、他人を攻撃する」
などと言う。
しかし俺は、そうじゃないと思う。
差別する奴らは、そもそも人間としての判断力がなく、脳みそがちゃんと出来上がらなかった人だと思う。
だから、自分を基準でしか物事を捉えられないので、自分と違う人々と出会った時、困惑してしまう。
そんな哀れで頭の悪い奴らだと思う。
じゃぁ、どうして世の中から差別はなくならないのかな?
それは、「哀れで頭の悪い奴ら」が、世の中にはたくさんいるからなんじゃないかな?
要するに、人間とはその程度の生物だということだ。
哀しいね。