![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/112410877/rectangle_large_type_2_0e5f13b58817006549b62a5bf3b33fba.png?width=1200)
フレームワークとルールと意識的練習 #考えたこと #8/3
枠に収まるのはいいことか?
最近こういう自問が絶えず頭の中にある。
小説の脚本とか、プロット。文の構成とか。
そういうフレームを用意するということは、書くという運動を制限することにはならないか。
そこに本来あるはずの自由を、妨げることにはならないか。
そんな心配をしていた。
でも僕たちはなんのルールもなしに、本来の意味で自由になることなんかできないんだと思う。
問題はそのフレームワークやルールが、複雑すぎることにあるのではないか。
成果を焦るあまり、幾つもの規範を設定したくなる。
でも考えることができるのは、あくまで1つか2つくらいだ。
逆にいえば、1つや2つのことは、意識できる。
『意識的練習』というやつ。
言語化して、それを念頭において、行動したい。
僕のそういう意識は、ゲームで育まれている。
ダクソのボスなんかそうで、初戦は相手の動きを見ることだけに集中する。
モーションがわかってきたら、次は後隙のある行動をひとつ探す。
そしてその後隙のある行動の予備動作を見極めて、攻撃を入れる。
およそこんな感じか。
時間はかかるが、いつか終わる。
そうは言っても、一筋縄にはいかないボスもいるのだが。(鐘のガーゴイル、マレニア、エルデの獣、てめーらのことだ)
久々にフロムゲーやりたくなってきたな。
今度AC6が出るか。
僕は本や動画、ときには映画なんかで具体的な方法論を見つけると、それを試したくなってしまうという癖がある。
『一日のはじめに鏡に向かって笑いかけると、自己肯定感アップ!』みたいなことを言われると、ついやってみたくなってしまう。
その方法論を鵜呑みにするのが良くないことは、もちろん知っている。
でも「仮説を試してみたい!」という気持ちで前に進む意識も大事なのではないか、とも思う。
新しいおもちゃを買ってもらった子供みたいに。
そればっかりで遊んじゃう、みたいに。
トイ・ストーリーを思い出した。
あの脚本はほんとうにすごいと思う。
虫眼鏡で火をつける、って伏線回収されるのすき。
きっと、そういうワクワク感を損なわない程度のルール、フレームが設けられればいいんだろうな。
それが自分にとってのスタンダードになれば、また新しいことができるし。