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note三年生が、改めて目標たててみた。



◇はじめに


 年末だし、note三年目だし。


目標を設定するのが苦手です。

いや、設定した目標通りに進むのが苦手、といいましょうか。

目標を設定したり、予定を立てたりすることそのものは苦手じゃないし、むしろ未来に目を向けるときは、わくわくして背筋がのびるような気持ちになるのですが、その期待感は次の次の日くらいには、プレッシャーに変わってしまう。

原因としては単純なこと。


僕は、こういうプレッシャーにかなり弱い。


例えば、会社のスローガンみたいなものに、強烈な忌避感を覚えて、しかもそれが通常業務に反映され、あたりまえの仕事にすら批判の目を向けるようになってしまう始末。

「これなんか意味あるのか?」

とか考えてしまう。

このような思考はアイデアを発想するとか、イノベーションを生む、みたいな場面なら、ほんのちょっぴり重宝される場面があったりなかったりするのかもしれません。

ただnote三年生を迎えるにあたって、そろそろ明確な目標をたてたほうがいいかなとも思いました。

理由としては、当初から目指していた『創作の輪のなかに身を起き、書き続ける』というものは達成されているのでは、と考えたからです。


▼去年はずっとそのことを考えていた気がする。


僕の小説やエッセイを、面白がってくれる人がいる。

いくつかの企画が受け入れられた。

【知的変態】という称号をいただいた。


など、いろいろな根拠が挙げられますが、とにかく大切なのは


『自分は創作を続けられるんだ』


という自信を得たこと。

ただこの現代社会という暴風吹きすさぶ荒れた海の中にあっては、この自信など、吹けば飛ぶようなちっぽけなお手製のイカダくらいのものです。

そこで、この荒波を渡っていくために、次なる目標を掲げる。

見ている人に、僕がどこを向いて創作活動をしているかをわかってもらう。

今回は改めて、そのための目標設定をしておきたいと思いました。


年始ではなく逆に、年末に来年の抱負を言ってしまうという荒業。

これはおそらく今年最後の記事になることでしょう。

すこし長い記事になりましたので、こたつの中などでみかんでも剥きながらのんびり読んでいただけると嬉しいです。



 今年は何を書いていたか。


目標をたてるために、まずは書いた記事を振り返ってみる。

今年はなんといっても『恋人と離れ、一時的に故郷の田舎に移住する』という大イベントが起こっていたため必然的にそれに関する記事が多かった。

年始の大地震や、カメムシの襲来、祖母との生活。

最近僕のことを知ってくれた人は【コメントリレーの人】と思われているかもしれない。

でも僕個人の創作活動としては長編を書き終えて、手持ち無沙汰になったのか、5000字くらいの短編をコンスタントに投稿しはじめたのが印象深い。

そのときは、短編を書かなくてはやってられないというくらい短編欲があった。

そして最近は企画で遊んでいたり、エッセイに精を出したりしているため、短編小説を書いていないし、とくに書きたいとも思っていない。

で、今はと言うと、今度はまた少しずつ長編が書きたくなっている。

このまえはエッセイを書きたい、なにかみんなの役立つようなことを発信したいと思っていたのに。

こんなことを書くと、小説がまるで何の役にも立たないことのように響くだろうが、まあ実際なんの役に立つかはわからないので、いかんともしがたい。

たぶん、これからもまたどこかで短編を急に挙げだしたりするのだろう。

そういう創作スタイルは、Noteのアカウント運用という観点から見ればご法度というか、本当はもっと統一感を出すべきなのだろうけれども、僕はあんまりそこらへんが上手ではない。

と、書くとどこかしら上手なところがあるかのように響くだろうけれど、そのようなところは全然ありません。

ただ、今年の活動からわかること。

それは僕のなかで『何かを書きたい気持ちは失くならない』ということだった。



◇修正すること


 書き直しができない。


以下は何を書くにせよ、関係してくる技術的な話をすこし。

現状、僕のとりあえず続けられているやりかたとして、書き直しはあまりしない

一度頭のなかから画面の中に打ち込まれた文字列を修正するということが、どうにも苦手だった。


読む方の気持ちになってみろ、という意見をよく聞く。

もちろんそれは僕以外の人間になるということを意味する。

だけどまず僕自身が、他人の書いたものに対してごちゃごちゃ読み手の意見を挟まないでなるべくありのまま読むべきというスタンスをとっているせいで、メタ的な視点がかなり欠落しているのだ。

僕だけが楽しむなら、それでもまあよいのかもしれない。

でも僕はプロの作家を目指している。

それがどんな形であろうと、自分が読んでほしい人に寄り添うという信条はこの先どれだけ稼ごうと絶対に失ってはいけない物書きとしての矜持だと思うのだった。


対となるものとして、独りよがりな表現というものを想像してみる。

例えば来る冬に備えて、オススメの防寒具を求めて記事を開いたのに、いつの間にか話題が編み物のことになっている、といったような脱線。

駅までの最短ルートを調べていたのに、駅周辺の観光スポットを紹介されはじめれば誰だって文句のひとつも言いたくなる。

僕としてはその脱線を、むしろ面白みとして書いたり読んだりすることもある。

でもそれは僕自身が、脱線を読みたい、と思っているから面白いと感じているだけで、世間一般はそうじゃないかもしれない。

実は、その寄り道のために約束の時間に遅刻するようなことになっているのかもしれないのだ。

だから少なくとも、僕が読んでほしい方々との待ち合わせには、寄り道はしても、5分前に着いているくらいの誠実さをもって執筆に望みたかった。



 見出し→書き直しの流れをつくる。


乙川アヤトの味を保ちつつ、読み手の求めているものも満たす。

それを目標としたとき、見えてくる課題は、やはり書き直しの有無ではないかと思う。

現状、僕の頭から直接出力される文は、知的というか理屈っぽいというか、正直言って、まわりくどい

単純に"1"を「1だった」とでも言っておけばいいところを「1に10を足して2をかけて20を引いたあと、4で割った」みたいなまわりくどさがある。

もちろん普通なら、その式の中身がクリエイターの味になる。

『文豪がカップ焼きそばの作り方を書く』みたいな本があるけれど(まだ読んでない)あれが成立するのは、答えが『カップ焼きそばの作り方』という"1"で統一されているためだ。

しかし今の僕は結局その"1"が書けてないじゃん、みたいなことになっている。

紅しょうがもマヨネーズもあるのに、肝心の焼きそばがない

"1"を求めている読者に届いていない。

そこで思いついたのが、見出しをつくること、だった。



 違和感を見逃さない。


これまでの書き直しをしない。というやり方に、見出しをつくるというプロセスを追加する。

そうすることによって、見出しの要素から外れた異分子をあぶり出し、それを修正していく、というのをこれからの課題にしようと思う。

残す異分子と、修正する異分子を分別する。

今までは無意識にやっていたことに、意識的になる。

最初は、ほんの些細な違和感として現れるかもしれない。

「ここ、なんかちょっと見出しとは違うような……」
という感じの。

「うん? 読みづらいか?」
このくらいかも。いやむしろ……

「今日、お米炊かなきゃなあ」
ぜんぜん別のことを考えてしまっているかもしれない。

「そろそろ冷蔵庫整理しなきゃなあ」
心が文から離れてしまっている。

「MUちゃんに会いたいなあ」
ああ、これはいつものやつだ。

……えっと、その、とにかく。

今までならその異分子を「まあ、こういうのもアリだよね」と野放しにしてしまっていた。

でもやっぱり、僕はこういう"1"を求めている読者の感覚に、もっと焦点を当てるべきなのだと思う。



 抱負として。


お気づきの方もおられるかもしれないが、この記事も一応自分なりに見出しをこまかく設けて、文の手綱を握ろうとしている。

大見出しだけでなく、小見出しの方もはじめて意識的に使ってみた。

『乙川の味』はそのままに、読みやすくなっていれば嬉しい限りです。


【書き直しの第一歩として、見出しをつくる。】


まずは、これを抱負のひとつとしたいと思います。



◇稼ぐこと


 『書くこと』と『生きること』を繋げたい。


僕にとって、2024年という年は特別なものだった。

何もしなくても生きていけるし、時間もたっぷりある。

結果としてそんな自由な時間を、すべて創作活動にあてることができたのだけど、おそらく来年はそうのんびりもしていられないだろう。

ワーキングホリデーでアイルランドにいったMUちゃんが帰国するタイミングで、僕は故郷を離れて再び東京へ出るつもりだし、その後のことは本当にどうなるかわからない。

この一年で公募への挑戦や、noteの活動を通して、『書くこと』と生計をたてる、つまり『生きること』を繋げる足がかりだけでも得られればと思っていたのだが、残念ながら僕にはそのような能力がなかった。

貯金もさほどあるわけではないので、どこか働く場所を探すことになるだろう。

必然的に、書くことにあてられる時間は減る



 『書くこと』でいただいた報酬。


「創作活動で生活していくことができない」

その現実にぶち当たったからといって、僕のなかにプロの作家になる夢を諦めようという気がさらさらないのは先述のとおり。

小説を書くのは僕の文章表現である以上に、生き方の表現になっている。


今年の9月、いつも贔屓にしてもらっているナウナウに、はじめてのサポートをいただき、とても深く感激し、「おばあちゃんに大福をごちそうしよう」と思っていたら、いつのまにか『あんバタークロワッサン』を買って一人で食べていたという出来事がありました。

大福を買えなかったことは別にいいとして、僕にとってその出来事は自分の胃の中におさめてしまいたいくらい嬉しいことだったのだ、とバターのじゅわっとした風味を楽しみながら思いました。

▲この記事にも書きましたが、それは自分のやりたいことで得た、はじめての報酬。


そして先日、仲良くしていただいているアオイさんからもサポートをいただき、これでついに祖母と祖父に大福を買ってあげることができると息巻いていたところ、いつのまにかスコッチウイスキーの瓶を片手にドンキのレジに並んでいました。

いつもより、ちょっといいやつ。もちろん自分用です。

この場を借りてお礼をさせていただきます。



 価値のある記事をつくる。


このままでは東京に戻るまでに、祖母と祖父に大福を食べさせてあげられない。

焦燥感を覚えた僕は、次なる目標を掲げることにしました。

とはいえ、ただ一般になされるような『フォロワー〇〇人!』や『毎日投稿〇〇日!』『収益〇〇円!』みたいな安直なものにしたくない。

オリジナリティあふれ、知的。
かつ人に優しく、オーガニックでサスティナブル。

そんな目標……。

何日も頭をひねりました。

頭を柔らかくするため、スコッチのストレートを傾けた夜もあります。

知的エネルギーたる糖分が足りず、キッチンの大福をつまみ食いした日もありました。

そうして思いついた目標。
それは……


『1000円稼ぐ』


です。



「は?」


と思ったそこのあなた、大丈夫です。

思考回路は正常に機能しているので、ご安心ください。悪いのは全面的にこちら側です。苦情は受け付けます。熱いお茶も出します。靴も磨きます。

正しくは『有料記事で、1000円稼ぐ』です。

インパクト重視でハショリました。すみません。

イヤだイヤだ、と思いつつも、具体的な目標というものはやっぱりどうしてもこういうものになってしまうのです。

お金というものはどう転んでも必要ですし、具体的な金額があればそれだけ進むべき道がはっきりしてくるというもの。

「一周まわって考えてこの目標になったのなら、それもいいじゃないか」と自分を甘やかしてみました。

もしかしたら『価値のある有料記事をつくる』とかでもいいのかもしれませんが……



……あれ。


こっちのほうがいいのか。


『稼ぐ』って言ったって、あくまでお金を払うのは見てくれている人であって、自分の目標とは言えないような。

その点『記事をつくる』なら自己完結するから達成のしようもあるというか。

……ていうか『1000円稼ぐ』ってなんだよ。小学生のお手伝いかよ。あれか。肩たたきとか、皿洗いとかして、一回100円とかいう法外な値段で親に雇われるやつか。よくやりましたよ。懐かしいです。そうして貯めたお金を握りしめて本屋やゲーム屋に足を運び、欲しい本をじっくり選んだり、結局足りなくておじいちゃんに泣きついたりするんですよね。そう考えると今の子って大変だろうな。すべてが値上がりしてますもん。Switchのソフトとか相場いくらくらいなんだろう。文庫本も1000円くらい当たり前よみたいになってるし。ラノベは供給量だってものすごいし。お年玉とか秒でなくなりますよ、秒で。大人になると中古のものを買うのになんとなく抵抗感がありますが、そういう意味でブックオフなんかは子供たちの最後の砦なのかもしれませんね。よく近所のおっきなブックオフに行って、ワンピース全巻揃えようとしてたなあ。中古だから「25巻だけずっと在庫ない」みたいな状況が長いこと続いて、その頃まだちっさい弟たちなんかは「あれ、アヤトお兄ちゃん。ワンピースってアラバスタ編で終わりなの?」みたいに思ってたんだろうなあ。


……

すみません。

過去回想がすぎました。

とにかく、今後の目標は


『価値のある有料記事をつくる』!!


1000円がどうたらいうのは、いますぐ忘れてください。


実は、有料記事のアイデアはもういくつか考えてありまして。

まずはその中のいくつかを、1月中には投稿したい。

もちろん無料の範囲でも楽しめ、クオリティにもこだわり、お金を払ってでも読むに値する記事にするつもりなので、あたたかく見守っていただけると幸いです。



◇生活すること


 立つ鳥、あとを濁さず。


最後に『書くこと以外の目標』も二、三きめておきます。

残り少なくなったとはいえ、いや、だからこそ田舎での残りの日々を丁寧に暮らしていきたいですからね。


そのための目標は、まず

『部屋を片付ける』

というもの。


『立つ鳥、あとを濁さず』という言葉もある。

僕はこの石川県の田舎の一室を、MUちゃんが帰国するまでの一年間、限定で使っているにすぎない。

わかっちゃいるのに、いろいろ散らかしてしまっていた。

そこらへんに書き殴ったメモなんかが散乱しているし、懐かしくなって子供のころのおもちゃを飾ってあるし、読んでない本なんて、それこそ山のようにある。

別にいまさら「僕のいないあいだ、部屋はこのままにしておいてほしい」なんて言うつもりはさらさらない。

でもやっぱり残された祖母のことを考えるとき、人の使っていた部屋をどうこうする、というのは本人以外かなり抵抗があるはずなのだ。

これからここに住まう家族のために、必要なことだった。

書いていて「終活みたいだな」とも思う。

これからの僕の人生は『吹き荒れて流れ流れて今はもうこんなところ』というものになる気がしている。

大切なもの、連れて行くもの、手放すもの。

決めなくてはいけない。

それは僕なりに、MUちゃんの自由な生き方に向き合うための覚悟でもあるのだと思う。

荷物は少ないほうが、遠くにいけると信じて。



 なるべく外に出よう。


今は石川の田舎でぬくぬく暮らしているので、一歩も家から出ない日というのがそれなりにある。

午前中は執筆作業があるため、こもるのは仕方ない。

ただ午後もその延長で過ごし、本を読んだり、ゲームをしたり、映画を観たりしていたら、あっという間に夕飯を作らなくてはいけない時間になっていたりする。

いいものを書くためには、やはり自分の足を動かして、自分の目でみて、触れることの大切さも忘れてしまってはいけないと思う。

それにMUちゃんと再会したときに、僕のひきこもり体質がひどくなっていれば、彼女に愛想をつかされるかもしれない。

なので一日一回は外に出たい

これはなにも無理にそうするということではなく、外出したいときにうだうだ理屈を引っ張り出してきて、寒いし風邪をひいたら困るとか、雨が降っているとか、積ん読をなんとかするんだ、とかうそぶいて部屋に居座るのを止めるだけ。

そっちのほうがよっぽど無理をしている

なので、行き先は自ずと図書館とか映画館とかいつもの散歩コースとかになるだろう。

そこでやることは、自室にいるのと変わらないにしても。



◇これから


 まとめ。


以上、つらつらと短編小説1本分くらい書いてしまいましたが、まとめたいと思います。

まずは、見出しをつくる。

次に見出しにそって、構成や文章の添削を行うことで、記事のクオリティを追求。そうしてできた価値のある、いわば消費カロリーの高い記事を、有料記事として投稿してみる。

まあ、仮にでもその収益の目標は1000円としておきます。仮に、ね。

そして実生活では、部屋の掃除断捨離をしたり、外に出たりする。

今後の方針としては、そんな感じです。



 書きたい記事。


最後に、いま僕の頭の中にある記事のアイデアをいくつか書き残しておくことで、この記事の着地点としたいと思います。

有料記事をつくるとは言いましたが、基本的に今のスタイルを崩すつもりはまったくございません。

それはつまり、エッセイや短編小説に公募、おもしろそうな企画には手を抜かないということ。

例えば、ご好評いただいた『#ミリしら解説』の企画は新しいものをすでに考えはじめております。

エッセイにしてもそう。

田舎に暮らしたことで浮き彫りになった、都会の不条理を綴った『乙川アヤトの二重生活』をシリーズ化する構想があったり。

田舎で、野鳥観察にハマったことがきっかけで恐竜を再現するに至ったルポルタージュはすでに下書きが完成間近。

僕の記事のアクセス不動の一位である『おにやんま陛下』の記事の二匹目のドジョウである『おにやんま君vsコーカサスオオカブト』は、大成功間違いなしだし。

栗を拾って栗きんとんを作ったことがきっかけで、全国の名だたる栗きんとんの地を行脚する『乙川アヤトの栗きんとんへんてこ道中』は僕のライフワークとなる予定である。



フォロワーの皆さまにおかれましては、どうか乙川アヤトの今後の活躍にご期待願いたい。

行き着く先がどこであれ、書き続けてみせます。

お時間をいただき、ありがとうございました。

それでは、良いお年を。

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