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【ショートショート】キミはストーカー

振り返るとその男はいた。

しとしとと朝から降り続ける雨のせいで道路は鏡と化し、そこに反射する雲は実際の雲よりも綺麗だった。買ったばかりの傘は職場のおじさまたちからビニール傘と笑われることも多いが、実際は3,000円近くかかっていたし、透明のビニール地に散らばる紫陽花のプリントは大のお気に入りだ。傘越しに見上げた空には美しく紫陽花が重なる。

黒いHUNTERのレインブーツが浅く水溜りに浸るも、全然気にならない。お気に入りのものに包まれるこんな梅雨の時期は、犬飼彩也子にとって楽しみでもあった。

ひと気の少ない住宅街の夜の道。お寺沿いだからか、薄気味悪さが常に漂う。彩也子はこの街に移り住んで2年以上が経ち、やっとその薄気味悪さにも慣れたところだ。

傘に当たるポタッポタッという瑞々しい破裂音に耳を傾け、自宅までの道を歩いていた時のこと、自分以外の気配を背後に感じた。気配というものは本当にあるのだろう、音でもなく、動きでもなく、自分以外の存在が近くにあるという事実を空気が彩也子に伝えてきた。

治安が悪いと言う噂はこの街では聞いたことがない。夜になると少し薄気味悪いだけで、事件などとは無縁な土地だった。

しかしそれはそれ、彩也子は自分の背後にくすぐったさを覚える。人生でこのような経験は今までなかった。気配があったとしても、振り返るとそれは自分と同じような女性だったり、家路を急ぐサラリーマンだったりで、かえって「すみません」と自分を責めたものだ。

今回もきっとそうだ、と彩也子は言い聞かせる。この背後の気持ち悪さに決着をつけたいのだ。晴れ晴れとした気分で家に帰りたいのだ。

それならばさっさと見よう。

彩也子はさりげなく振り向いた。

そこには男がいた。

明らかに彩也子と目が合い、「あ」とたじろぐ。これは、もしや。彩也子もまた前を見ようとするが、あまりにも男が慌てふためいたように目を泳がせるので、無視するわけにもいかない。彩也子も何故か目が泳ぐ。

「ごめんなさい」

その男は言った。

黒い折り畳み傘、グレーのパーカー、スリムフィットデニム、オフホワイトのキャンバススニーカー。普通の、ごく普通の男だ。そんな男がなぜかオドオドと体を震わせながら謝ってきた。

「え」

彩也子は訊き返す。

「ごめんなさい、あの、そういう追ってたわけじゃないんですけど、いやでもそうですよね、ごめんなさい、追いかける前に声掛ければ良かったんですけど」

男はひたすら謝り続ける。

キャンバスのスニーカーは、撥水加工でも施されてるのだろうか。片足が浅い水溜りに突っ込まれているのが彩也子はどうしても気になる。靴下は無事?

「あの、俺、怪しい者ではなくて、津田と言います、SEやってて、って名刺ですよね、名刺・・・」

そう言って尻のポケットを両手でパンッと叩いて「ああ、今日待ってきてないや」と落胆する。

「すみません、あの、インスタ見てます、インスタのSayaさんじゃないですか」

いかにも、私はインスタのSayaだ。

そう、彩也子はフォロワー10万人を誇るインスタグラマーだった。それはそうとしても、こうして男性から話しかけられるのは初めてだ。投稿にあげるものといえば、化粧品にヘアアレンジ、身長153cmなりのコーディネートで、決して男性にむけて情報を発信してるわけではない。実際、フォロワーも圧倒的に同世代の女性が多かった。

「あの、インスタで見て、か、かわいいっていうか、まあそうですね、可愛いなと思ってフォローしてるんですけど、すみません、こう言ったら大変気持ち悪い印象与えるのは重々承知なんですけど、もしかしたら、もしかしたら、すみません、ご近所なんじゃないかなと、あの、確信ではないですよ?あの、結構公園の写真とかここらへんの場所のものが多かったんで、ご近所なのかなあと思ってまして」

津田という男はところどころに断りの文言を挟みつつ、一人で話し続ける。

「今、俺そこのコンビニにいたんですよ、って気付かなかったですよね。すみません、そこで雑誌読んでたらちょうど隣にSayaさんが並んできたもので、ずっと、あれ?もしかして?って、で、で、こう、つい話しかける勇気も出ないままちょっと追いかけてきちゃったってわけで」

彩也子は彼が何を言わんとしてるのかさっぱり理解できなかった。しどろもどろになりながら一生懸命話してることだけは分かる。幸い雨音も激しくない。

「津田です、津田」

男はまたそう名乗った。

「はあ」

なんだか少しずつ雨が落ち着いてきたようだ。津田の背後を通りかかった人が傘をさしてないのを見てその現状に気付く。もう傘を畳んでもいいかもしれないけど、お気に入りの服が濡れるのは嫌だ。もう少し傘をさしておこう。

「趣味は絵を描いたり、動画ですね、動画編集」

なぜか聞いてもいないのに、津田は話し続ける。

「動画、あのYouTubeにあげてるんでもし良かったら」

津田はスマホを取り出し、近づいてきた。80cmほどの近さになったところで、彩也子はやっと津田の顔面を正確に認識する。

え、なにこのイケメン。

そう、彩也子は近視だった。今日はオシャレな伊達メガネ風レンズ入りメガネをかけたい気分だったあまり、コンタクトレンズを入れてこなかったし、そのメガネも2年前に買ったもので度数が合わなくなっていたのだ。

このイケメンが私のフォロワー!?

津田の顔面は彩也子のどストライクゾーンを突き進むものだった。ピッチャーが豪速球を投げてきた。バシンッとキャッチャーミットに収まるも、興奮収まらないボールはシュルシュルと音を立て回転し続ける。摩擦でミットの温度が高まりとうとう白い煙も上がるだろう。それはもう発火だ、発火。

「これ」と津田が自分の動画を見せてきたものの、その距離の近さにまた脈が上がる。

津田の動画はゲーム実況だった。そのチャンネル登録者の数に彩也子は目を見開く。

112万人!?

10倍だ。顔を出してる彩也子の遥か上をいく数字。

だあつーのゲームちゃんねる。

彩也子は必死に頭にチャンネル名のメモを取る。すごい、この人はすごい人だ。

顔をそっと覗くと、少しだけ目尻がキュッと上がった穏やかな瞳と至近距離で目が合ってしまった。

だ、だあつー。

彩也子の瞳はポワンとなる。昭和の少女漫画なら間違いなく黒目の中にハートが描かれていただろう。

「あ、あ、あの、興味ないですよね、ゲーム実況なんて」

津田はハッとして、まるで「俺ってば何やってんだ」と恥ずかしそうにまたスマホをポケットにしまった。

「あの、あの」

少し津田のどもり気味な口調も気になるが、全てご愛嬌。イケメンだと知った今、全く気にならないし、むしろチャームポイントだ。

「い・・・」
「い?」

緊張感を隠せない面持ちで津田が何かを言い出そうとしている。

「い、インスタでDM送ってもいいですか」

津田が言いたかったのはそんな可愛いことだった。

「はい、もちろんです」

雨が止む。彩也子はやっと傘を下ろした。津田もそんな彩也子を見て空を見上げ、恐る恐る傘を閉じる。湿気を含んだ空気のせいで紛らわしいが、たしかに雨は止んでいて、互いにホッとした表情で微笑み合った。

「もしよろしければ、津田さんの名前を教えてもらってもいいですか」
「はい、津田祐太朗といいます、Sayaさんは」
「犬飼彩也子です」

地面から蒸発する水分が、足元に不快にまとわりつく。傘についた雫が、スカートをほのかに濡らす。

しかし、それでも今の彩也子は気にならない。今、彼女は目の前の男にしか興味がなかった。

恋が始まる。

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