世界から携帯が消えたなら

時代が変わるにつれて、現代での人の在り方も少しずつ変化している。
数十年前はスマートフォンを見ている人なんてなかった。私は幼いころの記憶を覚えていないから、電車に乗っている人たちがどのような様子だったかもわからない。

けど、今確実にわかることは、電車やバス、あるいは車の中で携帯を見ている人が増えたという事実だ。
実際、自転車で信号を待っている際にふと運転している人たちを見ると片手運転、片手にスマートフォンという形が多い気がする。
私は現在運転免許取得を目指している最中だが、こういった人たちを見ると「教習所に戻ってやり直したほうがいいのではないか」と思わざるを得なくなる。

車に乗っている人だけでなく、歩行者もスマートフォンを見ながら歩いている、という例も多い。それが原因で事故が増えているのも事実だ。

そしてつい先日、SNS上に自殺する様子を撮影した動画が流れてきた。ここまで来ると人間性に疑いを持たざるを得ない。私はそれを見た際、人間はそこまでして自己承認欲求を満たしたいものなのか、注目してほしいものなのだろうか。と疑問に思った。

私たちは今一度携帯から目をそらすべきなのではないだろうか。
もしここで”携帯”という概念が消えたらどうなるだろうか。
このnoteのタイトルはそのことについて描かれている「世界から猫が消えたなら」(著:川村元気)より引用させていただいた。

実際、現実はスマートフォンがあって成り立つ社会と変わっている。
しかし、それは同時に依存という症状も引き起こしていると思う。

たまには携帯から目を離して、空を見上げたり、夕日のまぶしさに目を細めてみたり、何気なく目にする電車やバス内での風景で新しい発見をしてみるのはどうだろうか?
もちろん、携帯には携帯だけにしかない良い要素もたくさんあるが、自分自身が動いて知ることができる要素もたくさんある。
単にどちらかが一方的によく、一方的に悪いというわけでない。
それぞれが持つ良い要素、悪い要素を改めて理解しながら状況に分けての使い分けをするべきだと私は思った。

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