だれが日韓「対立」をつくったのか(2)《平和の少女像》(平和の碑)の願い
岡本有佳(編集者、Fight for Justice運営委員、「表現の不自由展」実行委員)
《平和の少女像》をターゲットにした攻撃
2019年8月1日に開幕した、日本で最大規模の国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019の〈表現の不自由展・その後〉(以下、不自由展)がわずか3日で突然中止されました。不自由展の参加作家16組に事前連絡もなく、私たち不自由展実行委員会との誠実な協議もありませんでした。大村秀章知事と津田大介芸術監督は、最大の理由を抗議電話・メールの殺到により、「安全確保」が不可能になったというものだと発表しました。
実は中止発表の前日、河村たかし名古屋市長(トリエンナーレ実行委員会代表代行)が不自由展を視察し、即刻中止を求めていました。これは作品内容に踏み込んだ明らかな政治的圧力であり、自由権規約(国際人権規約)の法的義務違反、表現の自由への侵害でした。
河村発言で見逃してならないのは、日本軍「慰安婦」について「そもそも事実でないという説も非常に強い」「強制連行の証拠はない」、さらに8月5日、記者会見で「強制連行し、アジア各地の女性を連れ去ったというのは事実と違う」と言ったことです。
1993年8月の「河野談話」は、「慰安婦」問題に対する日本軍の関与と強制性を認めた日本政府の公式見解です。重要なのは、現日本政府も河野談話は継承し、否定していないことです。連れていく際に強制されたかが問題ではなく、軍慰安所に連れていかれてから、そこで監禁拘束され、性奴隷状態にさせられていたことこそが最大の問題なのです(本書Q4参照)。
当初、あいちトリエンナーレに寄せられた匿名の電話やメールなど理不尽な攻撃のうち50%が《平和の少女像》でした。《平和の少女像》は、戦争と性暴力のない、女性の人権と尊厳の回復を願う芸術作品です。この日本軍性奴隷制被害の歴史と記憶が消されそうになっている時、ジェンダー平等を掲げるあいちトリエンナーレは、中止にする前に、むしろ声をあげて批判すべきでした。
《平和の少女像》が呼び起こす「共感」
《平和の少女像》の隣には空っぽの椅子があります。わずか3日の間でしたが、この椅子にどれほど多くの人が座ったことでしょう。たしかに歴史を否定し、侮蔑的で攻撃的な言葉を発した人もいました。しかし、毎日交代で警備をしていた私たちが声をかける前に、観客が、歴史を受けとめようよ、作品を静かに見ようよと言ったのです。こんな感動的な場面が増えていきました。
《平和の少女像》(正式名称「平和の碑」)の作者は、韓国の彫刻家キム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻で「民衆美術」の流れをくむ作家です。民衆美術とは、1980年代の独裁政権に抵抗し展開された韓国独自のもので、以降も不正義に立ち向かう精神は脈々と継承されています。
本作は「慰安婦」被害者の人権と名誉を回復するため在韓日本大使館前で20年続いてきた水曜デモ1000回を記念し、当事者の意志と女性の人権の闘いを称え継承する追悼碑として支援団体・韓国挺身隊問題対策協議会(現、日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯)が構想し市民の募金で建てられました。
作家はこの作品の最も重要なコンセプトは、「共感」だと言います。台座は低く、椅子に座ると目の高さが少女と同じになります。それは見事に成功し、人びとの心を動かす公共美術(パブリックアート)となりました。
「表現の不自由展・その後」会場にて、キム夫妻と筆者
細部に宿る意味
《平和の少女像》は細部にさまざまな象徴的な意味が込められています。作家が語ってくれた言葉をもとに4点ほど紹介しましょう。
少女の足は、はだしです。地についていないそのかかとは、苦しみの歳月のなかをさまよいながら不安に生きてきた人生を表現したものです。自分の場所にしっかり立っていようとしても、楽にかかとをおろすことができず、少女はいつも不安と居心地の悪さを抱えています。
かかとには無数の傷あとがあります。それは困難で険しい道のりを表します。つまり、この不安定なかかとは、解放後、やっとの思いで苦労して故郷にたどり着いた被害者を無視した韓国政府の無責任さ、韓国社会の偏見を問うているのです。自国への批判が込められている点にも注目したいと思います。
彫刻の姿は少女の形ですが、少女の影はハルモニ(おばあさん)の姿になっています。粉々に砕いた黒曜石のかけらをモザイクしてつくられていますが、かけら一つひとつが長い間おさえてきた痛みであり、それが積もり積もって長い時間をつくりあげ、ついにハルモニの影に変わりました。この影をとおして、加害者の謝罪と賠償を受けられずに過ごしてきた歳月、ハルモニたちの怨みと恨(ハン)がこもった時間が表現されています。
少女の傍の椅子は空いています。ここには二つの意味があります。
一つは、日本政府の間違いをただすことができないまま、無念にもこの世を去っていったハルモニたちを、空いた椅子で寂しげに表現したのです。残念ですが、その空席は今後も増えつづけるでしょう。
もう一つは、この席は、いつでもだれにでも開かれているということです。日本大使館を訪れる人たちが、だれでも少女の隣に座り、「私だったら……私の家族だったら」という気持ちで、現在のハルモニたちの叫びを一緒になって感じとることができるようにしたかったのです。
構想段階では少女の手は、二つの手をおとなしく重ねた姿でした。しかし制作する過程で、日本政府は謝るどころか少女像の設置に反対し、むしろ韓国政府に迫って持続的に妨害をしました。そうした日本政府の態度に怒りを感じずにはいられませんでした。こうしておとなしく重ねられていた少女の手には、おのずと力が込められ、だんだんと強く握られていきました。同時に、私たちがハルモニたちの苦痛の記憶・歴史を忘れないという決意を表しています。
沈黙を破った日本軍「慰安婦」サバイバーの勇気から始まった「慰安婦」問題解決運動は、世界の戦時性暴力被害者との連帯と支援として広がり、サバイバーは人権活動家として世界に声を届けています。だからこそ、サバイバー当事者が自分の分身と言う《平和の少女像》は、戦争と性暴力をなくすための「記憶闘争」のシンボルとして韓国各地をはじめ世界各地に広がっているのです。さらに #MeToo 運動と呼応し合うことで、若い世代との共感も深まっていることは性差別のない社会をつくるうえで大きな力となっています。
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