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「政治改革」が非常識な支配の条件をつくった――安倍政権とは何者か(第3回)

日本国憲法における「同意にもとづく支配」

前回まで、常識的あるいは非常識な「支配」という話をしてきました。
では「支配」とはいったい何でしょうか。

「支配」とはある個人や集団が、別の個人や集団を服従させる技術のことです。もちろん暴力や強制、命令によって服従させることが支配の根幹にはあるのですが、民主主義が一定浸透した現代社会では人は単なる暴力では服従しません。また支配とは国家だけがおこなうわけではありません。

わたしたちの日常生活になじみ深いものとしては「企業による支配」があります。企業は労働者を、労働時間を決め、働く場と条件を与え、給料を与えることで支配するわけです。でも企業の最大の目的は儲けることですから、企業が思うように支配すると低賃金で長時間過密労働の「ブラック企業化」していきます。ですから労働組合は、労働時間の短縮、労働条件の向上、賃金の引上げを要求していきます。
「健全な労使関係」とは、企業が「時間、空間、資源の支配」についての労働者の意見と要求を汲み入れる、つまり権力を独占せず、労働者側とある程度分け合うことで、安定的に支配するというものでした。

国家もまた、現代社会においては国民の意見や要求を汲み入れて、「時間、空間、資源」を支配する必要に迫られるようになりました。
20世紀初頭のマルクス主義の思想家アントニオ・グラムシは、現代国家の支配は「強制」から「同意」に移行しつつあると見抜きました。国家はもはや警察や軍隊によって民衆を制圧するだけではなく、国民の同意を得ることで支配を安定化させる必要が生まれたということです。

1946年に制定された日本国憲法はまさにこのような「同意にもとづく支配」を国家にやらせようとした点において画期的でした。
男女普通選挙権、結社の自由、表現の自由といった政治的、市民的自由を認めず、国民の意見や要求を聞かなかったからこそ、日本はファシズム化し、戦争に突きすすんだという痛苦の反省こそが、日本国憲法制定の原点でした。さらに日本国憲法が立法権、行政権、司法権と権力を3つに分け合い、立法権すなわち国会を「国権の最高機関」であると定めたのは、特定の個人や集団による権力の独占をゆるさず、あくまで国民の同意にもとづく支配をおこなうよう権力者に約束させるためでした。
戦後日本の大半を占めた自民党の「支配」が必ずしも「独裁」ではなかったのは、このような日本国憲法が課したフレームに、好むと好まざると服従せざるを得なかったからなのです。

【CC by gullevek】

「政治改革」がもたらした支配の条件

1990年代初頭から日本では繰り返し「政治改革」が叫ばれてきました。「政権交代可能な2大政党制の確立による民主主義の活性化」がその柱でした。
しかし今わたしたちが目の当たりにしているのは、その2大政党制の一角を担うはずであった民主党の消滅と、安倍政権に圧殺される自民党という民主主義の瓦解状況です。そして「酷いから倒れない」安倍政権の登場は、たんなる偶然ではなく、四半世紀にわたる政治改革の失敗がもたらした帰結にほかなりません。

1996年から衆議院選挙で実施されるようになった小選挙区比例代表制度は、当初「汚職、金権腐敗を防止する」という名目で導入されました。しかしこの制度を導入した結果起きたのは「自民党の安楽死」でした。小選挙区制の導入は、比較第1党に4割程度の得票で6割以上の議席を与えるという「安楽椅子」を提供しました。
一方で、各派閥が競い合って決めていた選挙区候補の公認権と資金が党執行部に完全に握られることになり、党内の多様な調整能力が失われました。

それまでの自民党政権では、総理大臣は「神輿」であり、各派閥の利害調整のうえに成り立っていました。しかし小選挙区制のもとで派閥は急速に衰退し、官邸から党へ、党から各議員へという指揮命令系統がつくられていったのです。
そして中選挙区時代には可能だった「下剋上」が困難になり「血統」で党の序列が決められるようになりました。1996年までは、内閣総理大臣は全員「たたき上げ」でした。しかし2000年代に入り、森内閣以降の自民党出身の総理大臣あるいは総理大臣候補といわれている人物は、全員「政治家2世あるいは3世」になってしまったのです。
「政治改革」の結果自民党は「中央集権的な血統支配の政党」に変質してしまったのです。

このように自民党の中央集権化がすすんでいったうえに、今度は「官邸主導体制」が確立していきます。とりわけ橋本政権と小泉政権下ではトップダウン型の意思決定がおこなわれるようになっていきます。橋本政権は省庁再編を断行し、官邸機能強化の構想を打ち立て、小泉政権はそれを引き継いでフル活用していきます。政治学者の牧原出が指摘するように、これは政権交代を封じ込め、自民党政権を永続化させることが目的でした。
そして第2次安倍政権では「内閣人事局」が設定され、官邸が官僚の人事を一手に握る体制が確立しました。

かつての自民党政権は「政・官・財」の鉄の三角形のうえに成り立っているといわれていました。これは政界・官界・財界、さらに労働界のあいだで権力が分立され、お互いの妥協と調整のうえに政権が成り立っていたということでもありました。しかし安倍政権は、自民党議員の公認権と資金、そして官僚の人事という生殺与奪の権利を一手に握り、首相官邸の意思を妥協なく貫く強制システムを確立したのです。

反ファシズム条項が危機にさらされている

このような安倍政権の支配のあり方は、この間のさまざまな政権をとりまく疑惑やスキャンダルの性質の特異さによくあらわれています。

小学校建設をめぐり極右活動家への便宜供与が疑われた「森友事件」、獣医学部新設をめぐる総理の友人への便宜供与が疑われた「加計学園事件」。いずれも安倍政権ならではのスキャンダルといっていいものでした。
かつての総理大臣や自民党議員が関与した汚職やスキャンダルは、派閥を強大化するための資金調達のためのものがほとんどを占めていました。金をたくさん集められることが、自民党内の支配の源泉だったからです。

しかし森友・加計事件は、金集めのためのものではなく、総理大臣と妻の思想と友人関係を守るために、政官あげて全力で「忖度」するというものでした。「忖度」とはまさに、人事の生殺与奪権を握る首相官邸に「誰が一番忠誠を尽くしているか」をめぐる官僚同士の競い合いが過熱したことで生じたふるまいでした。

さらに安倍政権下では、防衛省、文科省、宮内庁・皇室などから、内部告発やリークが相次ぎました。これだけ立てつづけに、複数の官庁から内部告発やリークがなされた政権はもちろん過去にはありません。これは、これまで官僚が相対的に自立性をもって決定していた領域にまで官邸の支配が侵食したことへの反発から生じたものでした。

かつては大蔵省・財務省を筆頭に各省庁は独自の省益をもち、それを自民党の「族議員」が保護し、自民党内で予算・政策調整をしてから政府に提案するという意思決定の回路がありました。しかしいまは「族議員」は力を失い、首相官邸を牛耳る特定の利益集団が全体を指揮・命令するようになっています。
安倍政権は「経産省内閣」といわれていますが、経産省出身の今井尚哉内閣総理大臣秘書官が、北方領土返還をめぐるロシア外交、対中国外交、消費増税などで外務省や財務省から主導権を奪い取るという事態にまで至っているのです。

また告発やスキャンダルが相次いだ省庁を司る日本国憲法の条文をみると、これら一連の告発の共通点がみえてきます。

宮内庁(憲法第1章)、防衛省(憲法第9条)、文科省(憲法26条)がそれにあたりますが、日本国憲法のこれらの条文は個々バラバラのものではなく、天皇を政治権力から排除し、軍備を排し、教育勅語を否定するという、天皇制軍国主義を封印するという目的において体系的なものです。戦後日本はこの目的に則り、文科省は教育基本法にもとづき、防衛省・自衛隊は「専守防衛」にもとづき、またとりわけ現在の天皇は「象徴天皇制」にもとづく天皇像を確立しようと努めてきました。
これらの省庁から告発やリークがなされたこと、そして前川喜平のような文部次官級の抵抗者が登場したり、天皇あるいは皇族から安倍政権を牽制する「政治的発言」がなされたことは、日本国憲法の「反ファシズム条項」全体が安倍政権により危機にさらされているということを示しているのです。

安倍改憲というと憲法9条のみに焦点があてられがちですが、安倍政権下では明文改憲によらない日本国憲法全体にわたる「原点と目的」の切り崩しが進行しているのです。

「非常識な支配」にむかった反動的動機

このような安倍政権の「非常識な支配」を可能にしたのは、四半世紀にわたる「政治改革」がもたらした「条件」が設定されていたからです。この支配は、これまでのような「権力の分かち合い」を排し、首相官邸に権力を一元化することで、日本国憲法のもとでの「同意にもとづく支配」を壊していくという「明文改憲なき改憲」を招くに至っています。

では、安倍政権は、なぜこうした「条件」をフル活用しようとしたのでしょうか。

「それは安倍総理が独裁好きだからでしょう」という説明も、なるほどある一面はそうなのかもしれません。ただ、だとしたら、なぜ第1次安倍政権ではこの条件はフル活用されなかったのでしょうか。安倍総理が独裁的な「性格」だとしても、設定された条件をフル活用しなければならないという「動機」を高める何かが、第1次政権と第2次政権のあいだにあったのではないでしょうか。

2007年の第1次安倍政権崩壊以後、日本政治は2度の政権交代を経験することになりました。そしてこの2度の政権交代が起こる直前には、大規模な社会運動が台頭していたのです。
2008年に発足した麻生政権は、リーマンショックによる世界経済の危機をもろに被り、小泉「構造改革」がもたらした非正規雇用の増大が危機に拍車をかけました。小泉構造改革への批判が高まり、「貧困問題」を掲げる社会運動が台頭し、2008年暮れの「年越し派遣村」が大きな注目を浴びることになりました。麻生政権はこの危機をなんとかかわそうとしましたが、「反貧困」の世論と運動は全国に広がり、自民党は内部抗争で統制がとれなくなり、解散総選挙の主導権をとることができずに民主党に大敗し、政権を奪われてしまうことになりました。

2011年に発足した野田政権もまた、原発震災の危機をもろに被り、2012年には原発再稼働をすすめたことで反原発運動に火をつけました、そのうえ「税と社会保障の一体改革」を断行したことで民主党は分裂し、解散総選挙の主導権をとることができずに自民党に大敗し、政権を奪われてしまったのです。

安倍政権が「非常識な支配」に走った動機は、まさにここにありました。

経済や災害による危機(クライシス)が大規模な社会運動を起動させ、それが与党を動揺させ、そして政権が求心力を失うことで倒れるというパターンから脱却しなければならない。これが第2次安倍政権発足当初の問題意識だったのです。

【CC by David Baron】

そもそも第2次安倍政権は発足当初、きわめて不安定でした。民主党政権下で自民党総裁を務めてきた谷垣禎一をむりやり降ろし、総裁選では対抗馬に肉薄され、野田政権の「自爆」によって転がり込んできた政権が、よもや六年以上もつづくとは発足当初誰も予想していませんでした。
ですから安倍政権は「やりたい政策」よりも、「組織固め」を優先したのです。

「アベノミクス」は新自由主義に対する世論の根強い不信の直撃を回避するために打ち出されました。「消費増税の先送り」もまた世論の反発をかわすためでした。さらに「リベラル」な谷垣を幹事長に起用することで「タカ派色」を払拭しようとしました。そして2013年3月には野田民主党政権の「原発事故収束宣言」を撤回し、2015年8月まで2年にわたり原発をすべて停止させることで、原発に対する世論の根強い不信の直撃を回避しようとしました。

このように発足当初の安倍政権は、社会運動と世論の直撃を回避することに専念していたのです。そしてその一方で四半世紀にわたる「政治改革」の成果をフル活用し、「官邸主導体制」を強化し、与党と官僚への統制を着々とすすめていったのです。

安倍政権はまさに「社会運動への恐れ」に駆られて専制的な体制をつくりあげていくという「反動」的動機から生まれました。そして2013年参院選で、与党が衆参両院における過半数を確保し、2016年参院選で衆参両院において改憲に必要な3分の2を与党が確保することで、「やりたい政策」を次々と打ち出すようになっていきました。

安倍政権の「一強ではあるが不人気」という「2つの顔」は、このようなプロセスを経て形成されていったのです。(続)

※最終回の第4回は、2019年4月26日(金)公開予定。

《本書の目次》


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