なぜマジョリティ男性は憎悪を募らせるのか?〜小田急線事件を受け『差別はたいてい悪意のない人がする』1章を緊急公開
8月6日夜、小田急線車内で36歳の男性が刃物で多数の乗客に斬りつけた事件。「幸せそうな女性を殺したいと思った」という容疑者の供述から、SNS上では「フェミサイド」(女性差別に基づく憎悪犯罪)だとの指摘が上がっています。むろん事件や動機の詳細は今後の解明が待たれますが、多くの人がこの事件を韓国の「江南駅殺人事件」になぞらえました。
マジョリティである男性が女性に憎悪を募らせる現象、そこでしばしば言われる「逆差別」という言説は果たして妥当なのか? 健全な議論に資することを願い、8月末発売『差別はたいてい悪意のない人がする』(キム・ジへ著)から1章「立ち位置が変われば風景も変わる」の前半部を緊急公開します。
著者:キム・ジヘ(金知慧)
韓国・江陵原州大学校多文化学科教授(マイノリティ、人権、差別論)。移民、セクシュアル・マイノリティ、子ども・若者、ホー ムレスなどさまざまな差別問題に関心を持ち、当事者へのリサー チや政策提言に携わっている。ソウル特別市立児童相談治療センター、韓国憲法裁判所などの公的機関にも勤務経験を持つ。 初の単著である本書が16万部超のベストセラーになり、ソウル市をはじめ数多くの自治体が選ぶ2019年ベストブックに選定された。(Photo ©Shin Nara)
マジョリティ差別論
2013年7月、自分を「社会的弱者」だと称する男性が、漢江(ハンガン)に飛び降りて死亡した(*1)。彼は生前、女性は「金も出さないくせに、ただ男性におごってもらったのを食っているだけ」だと強い口調で批判していた。彼は、女性たちが女性であることの恩恵を受けながら、義務や責任を負っていないと考えていた。そのため、女性家族部(*2)、クォータ制(*3)、女性専用施設など、女性のためにつくられた制度は男性への不合理な「逆差別」だと思っていた。
彼はみずからを「男性の権利擁護活動家」だと考えていた。また、男女のあいだでの徹底した割り勘を主張する「男女平等主義者」だった。彼が数年にわたって、女性家族部を廃止すべきだと主張していた理由は、男性が疎外されない、男女の「平等」のためだった。彼は自分に着せられた女性嫌悪主義者という汚名に反発し、こう抗弁した。
「私がほんとうに女性のことが嫌いなら、このように細かく批判できると思いますか? 違いますよ。私は女性を心から尊敬し、愛しています」
ほんとうに彼は、男女の平等を追求していたのだろうか。
2016年5月、江南(カンナム)駅付近にある商店街のトイレで、「女性に無視された」として、ひとりの男性が刃物を振り回して女性を殺害した。この事件以来、韓国社会において男女の対立がより鮮明に浮かび上がった。女性たちが性犯罪をはじめとする女性嫌悪犯罪の被害について声を高める一方、男性たちは、自分たちが潜在的な犯罪者としてあつかわれていると不平を訴えた。一方では、女性に対する差別や暴力の撤廃を求めているのに、もう一方では、女性を保護する政策は「男性に対する逆差別」だとの主張が続けられた。
一見、両者は相反する立場のように見えるが、皮肉なことに、双方とも自分たちが差別されていると訴えている。両者とも、平等の価値をかかげて現実を批判し、韓国社会に性差別が存在すると考えているところも同じである。ただ、どちらが不利な立場にあるかについての見解が異なるのだ。昔から、性差別の被害者は主として女性であり、女性の人権の向上が、重要な国政課題として位置づけられることに抵抗はなかった。いまや、このような状況は過去とは変わっている。いまでは、男性のほうが逆に差別を受けているという。ならば、女性が差別された時代はほんとうに終わったのだろうか。
このような差別論争は、他の場面でも見られる。韓国に移り住んでいる移住者のことを考えてみよう。韓国社会における移民は、1990年代から外国人労働者が、そして2000年代からは国際結婚による移住者が急激に増加した。
それによって、多様な言語と文化が可視化されはじめ、多様性を尊重しなければならないという多文化主義への議論がおこなわれるようになった。2012年には、セヌリ党〔当時の保守系与党。2020年に「国民の力党」に党名を変更〕でさえ、フィリピン出身の結婚移住者であるイ・ジャスミン議員を比例代表として当選させるくらい、多文化主義への流れに積極的に加わっていた。しかし、それとほぼ同時期に、反多文化主義派の声も高まりはじめた。ある人々は、外国人労働者のせいで韓国人の仕事が奪われており、結婚移住者は金目当てに結婚した人々だとするなど、海外からの移住者のせいで韓国人が被害を受けていると主張した。また、移民を支援する政策は韓国国民に対する不当な逆差別だと抗議した。
セクシュアル・マイノリティが韓国社会で可視化されるにつれ、こちらにも同じような状況が見えてきた。最初は「お嫁さんが男なんて聞いたこともない」と、伝統的な家族観にもとづいた批判からはじまった。2007年の差別禁止法制定の試みをきっかけに、キリスト教保守派団体を中心にセクシュアル・マイノリティへの反対運動がしだいに激しさを増し、セクシュアル・マイノリティの権利を保障すれば、血と汗を流して建てた国が滅び、キリスト教徒が被害を受けるといった主張が展開された。いまや「同性愛者による独裁が広がっている」と、自分たちこそ迫害されているのだとかれらは訴えている。少数のセクシュアル・マイノリティの人権を保障することが、性的多数派に対する逆差別になるという主張だ。
差別なんてない?
マイノリティのためにマジョリティ(多数者)が差別を受けるという「マジョリティ差別論」の主張は、果たして現実に存在するのだろうか? マジョリティ差別論の主張を覗いてみると、それらは「マイノリティはもはや差別されていない」という前提からはじまっている。たとえ過去に差別された事実があったとしても、現在は解決済みのはずだという思い込みに拠っているのだ。そのため、マイノリティを助ける政策は「特権」に過ぎず、相対的にマジョリティにとっては不当な差別となる。
1910年代イギリスの女性参政権獲得運動を描いた映画『サフラジェット』(邦題『未来を花束にして』、イギリス、2015年)を観て、ある学生がこう語った。「当時はほんとうに女性の権利がなかったから、ああいう過激な闘い方も当然でした。でも、いまの女性たちは投票もできるし、昔のように差別されてはいないですよね」
韓国社会に性差別がもはや存在しないという考えは、女性が政治家や管理職などのリーダー層に進出したことによって裏付けられている。たとえば女性が大統領になった事実、国家試験で女性の合格者が多いという事実などだ。実際には、韓国政府の発足以来70年間に女性大統領はたったひとりだけで、そもそも彼女が大統領になったのも、父親である元大統領の威光があったということ、また5級以上の国家公務員に女性が占める割合はいまだに20%に及ばず、高級公務員では5.2%に過ぎない(行政府所属、2017年現在)という事実は、ほとんど見ようとしない。
このような客観的かつ明確な指標があるにもかかわらず、つい差別の存在を否定したくなる。これは首をかしげたくなる現象だが、個人の認識をたどってみると納得できるようになる。
女性が大統領や高級公務員のようなリーダー的地位に立ったり、かつては男性が大多数を占めていた職業についたりすると、それはすぐ可視化される。このような女性たちはすぐに目立つので、その数が多いように感じられる。中には、このような女性と自分の立場を比較して、相対的剝奪感(*4)を覚える人もいるだろう。
女性が「平均的に」不利だという事実は、あまりに抽象的で、なかなか響かない。一方で、目の前の女性が自分より良い条件や恵まれた立場にあるという事実は、具体的な感覚で経験できるものだ。
差別を不可視化する「トークニズム」
少数の〔恵まれた〕女性が存在するだけで、差別がないように見えるという奇妙な現象は、実験を通じても読み解くことができる。アメリカのある研究(Danaher & Branscombe 2010)で、男女の参加者を対象に、会社の新しい採用方針について質問した。
現在、在職している女性職員の割合を2%だとし、今後採用する職員のうち、女性が50%の状況、10%の状況、2%の状況という三つの条件を提示した。仮に参加者自身がこの会社で働くとしたら、それぞれの条件に対して、どの程度好意的に反応するかを測定した。
結果、女性の参加者は女性が50%を占める状況の場合「より公正」だと反応し、男性参加者は女性が2%の状況に対して「より公正」だと答えた。一方、女性が10%を占める状況については、男女ともに「公正」だという認識もある。
平等の観点からみれば、もっとも理想的な条件は、男女の割合が等しい最初の条件である。しかし、実験に参加した男性と女性が、いずれも公正であると同意した状況は、女性の割合が10%の状況であった。これは、女性職員が、いわば公正な装いのためのお飾り(トークン)にとどまるような状況といえる。トークニズムtokenismとは、このように、歴史的に排除された集団の構成員のうち、少数だけを受け入れる、名ばかりの差別是正措置をさす。
トークニズムは、被差別集団の構成員のごくわずかを受け入れるだけで、差別に対する怒りを和らげる効果があることが知られている。それによって、すべての人に機会が開かれているように見え、努力し能力を備えてさえいれば、だれもが成功できるという希望を与えるからである。結局、現実の状況は理想的な平等とは雲泥の差があるにもかかわらず、平等な社会がすでに達成されているかのような錯覚を引き起こす。
韓国における性差別は、どのような状況なのか。性差別を示す指標のひとつである所得格差を見てみよう。韓国雇用労働部が発表した女性の平均月収は、男性の64.7%に過ぎない(2017年現在)。この統計は、女性が経済的に不利な状況にあることを客観的に示している。
しかし、女性の平均所得が統計的に少ないとしても、個別の出会いでは、つねに男性が女性より経済力で優位に立つとは言えない。すべての男性が、すべての女性より経済的に優位に立つ「完全な」不平等社会ではないかぎり、男性が自分よりも所得の高い女性に出会う確率は当然ある。
このように、社会的な不平等と、個人が日常的に経験する世界が、かならずしも一致しないというギャップが存在する。「割り勘」論争は、このギャップから生じたものである。男性だからといって、だれもが女性に比べて経済力があるわけでもないのに、そのように期待され、デートの費用を負担しなければならないのならば、その負担は個々の男性にとっては不当に感じられざるをえない。だが、そうだとしても、自分の周囲に男性より稼いでいる女性がいれば、女性に対する差別が存在しないと考えてもいいのだろうか。客観的な指標は、社会が依然として女性に不利だという事実を示しているのに、ジェンダー平等に関する政策に対して男性が感じる不合理さとは、いったい何だろうか?
差別の存在を否定する「悪意なき差別主義者」
移住者やセクシュアル・マイノリティに関する逆差別の主張も同じく、移住者やセクシュアル・マイノリティに対する差別はない、または「あったとしても不合理な差別ではない」という前提の上に成立する。
マイノリティ保護の政策は、マジョリティが差別をしていることを前提とするものであるため、マジョリティの立場からは納得がいかないかもしれない。差別しているつもりがないのに、マイノリティが差別されているとして、その是正を求める政策は、マジョリティにとっては理不尽で不当なあつかいを受けているように感じられる。女性が安全で安心して暮らせる社会の実現を訴えることが、すべての男性を性犯罪者あつかいしていると感じられるように、自分が差別主義者あつかいされたような気がして、居心地が悪いのだ。〔それよりは〕自分の所属集団は差別をしない人々であり、社会にマイノリティ差別など存在しないと考えたほうがすっきりする。
たいていの人々は、平等な社会を志向し、差別に反対している。観念上ではそうだということである。結局のところ、マジョリティ差別論もまた、差別は正しいことではないという基本的な前提の上に成り立っている。私たちは、少なくとも平等という原則は道徳的に正しく、正義だと受けとめている。ほとんどの善良な市民にとって、だれかを差別したり、差別に加担したりすることは、いかなるかたちであれ、道徳的に許されないことである。差別が存在しないという思い込みは、もしかしたら、自分が差別などする人ではないことを望む、切実な願望のあらわれかもしれない。しかし残念ながら、そのように思い込んでいる人ほど、皮肉にも差別をしている可能性が高いのだ。
(翻訳=尹怡景)
無料公開部分は以上です。続きは8月末発売の書籍でお読みください!
*1 2013年7月25日、「韓国男性の人権の現状を告発するため」として漢江に飛び降りるパフォーマンスをTwitterで予告。本人は泳ぎに自信があるとも語っていたが、結果として水死した。警察は当日の雨などの影響による事故死と結論づけた。
*2 女性家族部:女性の地位向上に向け2001年に新設された女性部が2005年に名称変更した政府機関。「部」は日本での「省」に当たる。
*3 クォータ制:英語で「割り当て」の意味。構造的差別により力を生かす機会が少ない集団に機会をつくり、実質的な平等を実現するポジティブアクションのひとつ。
*4 相対的剝奪(感):他者もしくは他集団と比べて、権利や資格など当然自分にあるべきものを奪われたように感じること。実際に失ったものがなくても、他者がより多くのものを持っているとき相対的に自分が何かを失ったように感じる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?