この国の不寛容の果てに(最終回)植松被告がもしも「べてるの家」につながっていたら 向谷地生良(浦河べてるの家SW)×雨宮処凛
好評『この国の不寛容の果てに』note連載もいよいよ最終回。ラストを飾るのは、雨宮処凛さんが「生きづらさ界の〈ラスボス〉」と呼ぶ、浦河べてるの家ソーシャルワーカーの向谷地生良さんです。書籍版へのご感想でも、最後のこの章に希望を感じた、という方が多くおられました。果たしてその中身とは?
依存症者に揉まれながら
雨宮 浦河べてるの家(以下「べてる」)のことはずっと興味を抱いて本も読んできましたが、向谷地さんと対談するのははじめてですね。はじめに、向谷地さん自身のご経歴と、べてるのこれまでについてお話しいただけますか。
向谷地 私の住んでいる浦河町は北海道の太平洋側の海沿いにある、人口1万2000人ほどの小さな町ですが、たまたま縁あって1978年に、町内にある総合病院の精神科専属のソーシャルワーカーとして仕事を始めたのが最初ですね。
私も浦河に来てはじめて知ったんですが、町民のおよそ3割が先住民であるアイヌの血を引く人たちと言われていました。それと、浦河には在日韓国・朝鮮人の二世、三世も多いですね。戦前、いわゆる強制徴用で、炭鉱などでの労働力として朝鮮半島から北海道に連れてこられた人たちがいて、多くは終戦後に帰国しましたが残った人も多かったんです。
向谷地 浦河に赴任してすぐ、地元の保健師さんに「この町でいま一番困ってる人を紹介してください」とお願いして、連れていってもらったのもアイヌの人の家庭でした。夫は青森の南部から来た元漁船員で、奥さんはアイヌの人。奥さんのお父さんはメチルアルコールで失明した依存症者で、母親は統合失調症でした。2人の妹と弟がいたんですけど、妹さんの連れ合いも全員、依存症を持っていて、依存症を持つ親のもとで育った人たち。もちろん弟さんも依存症で。どこを見てもそういう家庭ばっかりでした。
そのような環境で育つ子どもたちは、いまで言うネグレクトや虐待と言われてもいいような状態でしたね。酒をめぐっての親族間のトラブルやケンカも絶えなくて、家族に「何かあったら電話ください」と伝えて、毎日毎日、トラブルのたびに駆けつけるのが最初の仕事でした。
そうやって、最初はアルコール依存の家庭から始まったんですが、統合失調症だとか、他の病気を抱える人たちも多くいて、地域の中ではしょっちゅうトラブルが起きます。バットを振り回して暴れるとか、誰かに狙われてると言って近所とトラブルになるとか。そういう相談を家族から受けては駆けつける毎日でした。
精神障害を持つ当事者とともに暮らす
雨宮 大変なお仕事ですね。もともとソーシャルワーカーになろうと思ったのはどうして?
向谷地 学生時代は難病患者さんの支援ボランティアをやっていて、精神分野についてはまったくの素人でした。精神医療については、就職が決まってから急遽1週間だけ、札幌の精神科病院で実習をさせてもらっただけです。私が浦河に来て思ったのは、セツルメントのような活動をやりたいなということ。セツルメント(移住者)っていうのは、もとは1880年代の産業革命期のイギリスで、トインビーという経済学者が学生を連れてスラムに移り住んで、貧しい人たちと寝食をともにしながら貧困問題を解決しようとした運動です。日本でも戦後は各地の大学にセツルメントのサークルがあって、私は直接参加しませんでしたけど、浦河に来て貧困の連鎖に出会ったときに、セツルメント的なことをしてみようと考えたんですね。
アーノルド・トインビー(Arnold Toynbee、1852-1883)
雨宮 それで患者さんと一緒に活動を始めたんですね。
向谷地 ええ。79年に、のちに「浦河べてるの家」と名がつく古い教会堂に住み込んで。浦河の教会は貧乏で、牧師さんも不在の古い教会だったんですが、空いている部屋があったのでメンバーさんたちに「一緒に住みませんか」って。
雨宮 また、勇気ある行動ですね…… 。
向谷地 従来の精神科医療の考え方では、統合失調症などの患者さんに対しては、投薬治療して段階的にリハビリを施して、自立・回復をめざす。そういうひとつのイメージがあったわけです。でも私は、お医者さんには悪いけど、病院の中での回復っていうのに違和感があった。当事者運動とか当事者活動の影響を受けてきたこともあって、病院に就職してすぐ思ったのは「医学の医は“囲い込み”の囲、看護の看は“管理”の管、福祉の福は“服従”の服」だなって。この構造が精神科の中に根を張っている。そういう中での回復とか治癒なんてありうるんだろうか、と。だから、なるべく精神科から離れたところで、患者さんといろんなことをしてみたいっていう思いがあったんです。
雨宮 どうしてそんな大変なことを自分からできたんですか。正義感なのか使命感なのか、趣味なのか(笑)。
向谷地 単純に私は、これがソーシャルワーカーとしての務め、仕事だと思っていました。というよりも、そう思わないと続かないような感じでしたね。
雨宮 でも、仕事にしては割が合わないじゃないですか。
向谷地 ……本当に、そうですね(笑)。
雨宮 (笑)
「べてる」の由来となった障害者の町ベーテル
向谷地 「べてるの家」という名前の由来は、ドイツのビューレフェルト市という、オランダに近い工業都市の中にあるベーテル(ヘブライ語で「神の家」)という小さい町の名前です。いまから170年くらい前、その町にある小さな教会が、てんかんの青年たちを受け入れて共同生活を始めた。当時、てんかんの人たちも社会から理解されず、非常に困難な立場にあったようです。そこに、いろいろな障害を持つ人たちが集まるようになって、働く場所や暮らす場所、病院などが徐々にできて、町に発展したんだそうです。
雨宮 もともと、そういう障害を持つ人の町の名前が由来だったんですね。まさに、その後の浦河の予言みたいです。
向谷地 そうなんです。ナチスの時代になって、ドイツは障害者や難病患者は国の発展の阻害要因だと考えて、安楽死計画を実行しました。とりわけ精神障害者をターゲットに、選別して安楽死させる政策が始まって、当然ベーテルの障害者たちも対象になったんですが、町の人々があの手この手で抵抗して彼らを守ったそうです。たとえば、詳細なチェックリストに基づいて対象者を選別する段階で、この人はこれができます、あれもできます、と証言したりして。そういう逸話のある町なんです。
雨宮 T4作戦といわれた障害者絶滅政策ですね。てんかんの患者も対象だったんですか。
向谷地 精神障害、知的障害、病弱者など全部ですよね。それが実行された先にユダヤ人の大量虐殺があったわけですが、最初は精神障害者の安楽死政策から始まったと言われています。それに抵抗した町がベーテルで、たまたまその話を聞いた浦河教会の宮島利光牧師が、「べてる」と名付けようとおっしゃったんです。
雨宮 「べてるの家」の由来がそんなところにあったなんて知りませんでした。それこそ、優生思想に対するアンチテーゼの象徴ですね。
物騒な幻聴は社会を反映している?
雨宮 意外なところで相模原事件との接点がわかりましたが、向谷地さんはあの事件を知ったとき、どういうふうに思いましたか。
向谷地 その日は大学にいたんですが、本当にあっけにとられたというか、唖然としましたけど、どこかでは、ああ、やっぱりという感覚もありました。実は、あの事件の年の3月に、ひとつ記憶に残っていたニュースがあるんです。マイクロソフトが開発したAI(人工知能)の実験で、インターネットにAIを接続したら勝手に学習して、ユダヤ人のホロコーストを否定したり、ヒトラーを礼賛するような発言をするようになったので開発が中止されたというものです。なので、7月に相模原の事件が起きたとき、何かざわっとするものがあったんです。もしかしたらあの青年も、このAIと同じような影響を受けていたんじゃないかと。
向谷地 私がどうしてAIのニュースに着目していたかというと、統合失調症の人たちの抱える幻聴や幻覚、妄想は社会に蔓延している言説を反映したものだという医療人類学者の研究を目にしていたからです。
幻聴というのは、だいたい悪口とか「殺せ」とか、物騒なことを言ってくるわけです。そして、本当に数は少ないのですが、中にはその声に脅迫されるようにして、なんらかの事件を起こしてしまう人もいます。私たちも、いくつかそういう事例に遭遇してきたので、どうしたらそれを変えられるかと考えていたときに知ったのがこの研究でした。
それによれば、統合失調症の人が聞いている幻聴は、彼らの属する社会のローカルカルチャーに影響を受けているというのです。たとえば、アメリカの患者さんには「死ね」とか「殺せ」という幻聴が多いけど、安定した共同体がそれなりにあるインドやガーナの人たちは、褒め言葉とか肯定的な幻聴を聞くことが多いそうなんです。
雨宮 えー! 幻聴が褒めてくれるなんて、いいですね。
向谷地 それは私たちも経験的に実感しているんですよ。最初は「死ね」だった幻聴さんが、コミュニティとつながることで変わってきて、しだいにポジティブな内容に変わる。ラーマンが実証的な国際調査からこういう結果を導き出していると知って、なるほどと思いました。つまり、統合失調症の人たちの聞く声というのは、その社会の現実を反映している可能性がある。
人間はそもそも、社会や世界の中に飛び交う言葉や雰囲気、文化を取り込みながら自分をつくっている。それはたとえば、メルロ・ポンティという哲学者なども言ってきたのですが、それが実証的に裏づけられたのではないかと思っています。
トンコロガスに襲われる
向谷地 先日、私たちも関係している池袋のホームレス支援の活動拠点にお邪魔して、20年か30年、ずっと路上生活をしてきたらしい年配の女性と会う機会がありました。話を聞いていくと、長年「トンコロガス」から逃げているというんです。
雨宮 なんですか、トンコロガスって。
向谷地 豚をイチコロに殺してしまう、強い毒ガスということみたいです。
雨宮 だからトンコロ(笑)。
向谷地 「この問題をわかってくれる専門家に会いたい」と言うのですが、名前も過去も言わない。そこで、私が一応“その方面の専門家”だということにして「私はトンコロガス問題の研究をしている者です。いろいろ教えてください」と言ったら、彼女はいろいろ話しててくれました。聞いていくうちに私は、この社会を覆っている一種の閉塞感のようなものを、彼女はトンコロガスと表現しているんじゃないかと思ったんですね。
その方に、「あなたのお話はすごく大事なことなので、もっと教えてください。そうやって話してもらうことで、ささやかでもいまの社会に対して、毒ではない、きれいな空気を送って、社会を浄化できるんじゃないかという気がするんです」と言ったら、すごく喜んでくれてね。それからは、あちこちに顔を出すようになって、私の講演会にも来てくれたので、アドリブで「一言話してもらえませんか」と言ったら、舞台に上がって、普段社会について考えていることを話してくれたんですよ。
雨宮 すごいですね。
向谷地 彼女には、私たちに見えないものが見えたり聴こえたりするのかもしれませんが、その世界から逃走しようとするとホームレスにならざるを得ないわけです。その人たちの苦労がこの社会を映す鏡のようになって、私たちは彼女から学ぶことができる。そういう循環をつくりだせる大事な人材だなって思いましたね。
雨宮 それがさっきのAIの話の裏表になっているわけですね。
向谷地 そうです。私たちがいま当事者研究という活動をしているのは、病気の人を治すというよりは、むしろ彼ら・彼女らの経験を社会に発信することで、この世界に違った種類の言葉を送り込んでいくということだと思っているんですね。先ほどのAIは、ネット空間の中に飛び交っている攻撃的な、あるいは差別的な言葉を吸い込んでヒトラーを礼賛するようになってしまった。相模原事件を起こした青年も、もしかしたらそういう声を知らず知らずのうちに拾ってしまったのかもしれない。
彼は、生きる価値のない人を親や社会に代わって“始末”したんだから本当は感謝されているはず、という趣旨のことを話しているようですけど、実に私たちが生きる社会の“痛いところ”を突いてくる、それは「生きる価値」をめぐる彼自身の根本的なジレンマ、恐怖の裏返しでもあるわけです。彼はその恐怖を乗り越える手立てとして、あの事件を起こして「ヒーロー」になろうとした。そこにしか彼は自分の存在意義を見出すことができなくなってしまった。だから、彼はこのロジックから降りられないし、降りようとしないと思いますね。
雨宮 ネット上では、社会保障の財源とか福祉の費用対効果みたいなことから、真面目に植松の論理に共感するという人が、悪びれることもなくそれを表明しているのにすごく驚きました。
向谷地 植松被告が話していることは、ほとんどがパーツのように、すでに誰かが言っていることのつなぎあわせだと思うんですね。障害者が無用な存在だとか、そういうロジックはすべて彼のオリジナルじゃなくて、すでに過去から現在まで流布している言説が彼の中にどんどん蓄積されている。神戸金史さん(RKB毎日放送記者)の話によると、彼はかつてナチス・ドイツが障害者絶滅政策をとったことを知らなかったそうです。ちょっと意外な気がしたのですが、ヒトラーは、とにかく宣伝が大事だということ、そして、それが人々の心の中に一種の信仰のように根づいて、判断力を見失うように宣伝しなければいけないと言っているんです。時空を超えてそれはちゃんと彼に届いている、そう考えるとより深刻な気がしますね。
「無差別殺人したい」という青年との対話
向谷地 あの事件のあと、ある地方の市役所の関係者から相談があったんですよ。「植松とか、オウムの松本智津夫に憧れる、理不尽な世の中を思い知らせてやると言って、無差別殺人をほのめかしたり、安楽死をさせろといった電話を毎日何十回とかけてくる青年がいて、スタッフも職員も困っている。どう対処したらいいでしょう」と。
雨宮 それ、普通に警察を呼ぶべき案件じゃないですか(笑)。
向谷地 そうなんです。現場では警察にも当然相談していたんですけどね。でも、そう言っているだけで具体的に何かしたわけじゃないし、背景にはさまざまな可能性が考えられるということで、精神科医にも相談しつつ、関係者は緊張しながら対策を練っていたようなんです。私も、自分なりの経験からできるだけ情報提供やアドバイスをしていたんですが、他の相談業務にも支障が出るし、職員の人たちは日に日に追い詰められていくばかりだったので、やむなく「その人に僕の電話番号を教えていいですから」と伝えて。
雨宮 教えちゃうんだ(笑)。勇気ありますね。
向谷地 そうしたら、すぐ電話がかかってきました。たしかに、ちょっとこれは何か起こしても不思議はないなと思わせる雰囲気だったんです。世の中に対する不平不満や不公平感、健康面でのつらさなどを延々と話して、「通行人を無差別に殺したっていいんじゃないの」といったことを、あえて嘯くような。こういう人がテロリストになったり無差別殺人を起こしたりするんだろうな、という気持ちになりました。
以後、彼からは毎日のように電話がかかってきて、私はそれを聴くようになりました。いまでもほぼ毎日話しています。
雨宮 すごいですね。向谷地さんの辛抱強さが尋常じゃないです。
向谷地 彼の論法は単純なんです。電話の最初はかならず「面白いことない、つまんない」。
雨宮 普通すぎる(笑)。普通の若者ですね。10代のころのうざい友達みたい。
向谷地 そのつまらなさを解消するのに何が欲しいかというと、「出会いが欲しい」と。
雨宮 それもすごい普通ですね。なんでそれが無差別殺人とつながるんでしょう。
向谷地 彼女いないし仕事もしていない。だからつまらない。かわいいのは、「誰か、俺とランチ食べる人いませんか」って。
雨宮 かわいいですね(笑)。飲みに行くとかじゃなくてランチなんだ。
向谷地 「なんでランチなの」と聞くと「飲みに行こうって言ったら下心あると思われるでしょ」って。
雨宮 そこの気遣いはできるんだ。
向谷地 ランチで関係の下地をつくって、次の手立てが夕食やカラオケという、ちゃんとプランがあるんです。それで市役所に「誰かランチ一緒に食べませんか」って電話をかけていたんですよ。
雨宮 市役所に?
向谷地 そう。最初は市役所に「すいません、誰か俺とランチ食べませんか」と電話する。当然、「は?」となって福祉の相談窓口に回されますよね。窓口で同じことを言うんだけど、もちろんランチを一緒に食べてくれたりはしません。彼にしてみれば、「なんでも相談してください」って看板出してるのにどうして紹介してくれないのか。俺は出会いが欲しいのに、と。役所からみれば、そのような支援はできないと説明したのに、自分の要求を通すために無差別殺人や自殺をほのめかし、手におえない、となるわけです。
雨宮 「ランチする相手が欲しい」っていう要求が満たされないから無差別殺人。ものすごい飛躍ですね。でも、なんとなくわかる気がする。とても普通な気がします。彼は全然、病気ではないわけですよね。
向谷地 そうですね。病気じゃないけど、普通に生きることにものすごく行き詰まっている。だけど関係者は最初その飛躍が理解できなくて、もしかしたら病気じゃないかと考えたわけです。
対話の中で変化するものがある
向谷地 それで、たまたま彼が住んでいる近くで講演があったもんですから、「今度行くから、ご飯でも一緒に食べますか」と言ったら、「あ、ほんとですか。そしたら俺、働きます」って。
雨宮 えー! すごい、素直ですね。
向谷地 かれこれ10年以上仕事してない彼が、私とご飯を食べるために、食事代とホテル代を稼ぐために働くって言うんですよ。しかも「俺におごらせてください」と言うので「わかりました、じゃあご馳走になります」と。
雨宮 それで、本当に彼は働いたんですね。
向谷地 ええ。それで、とうとう一緒にランチをしました。食べたあと彼が「俺、次はなんのために働けばいいですか」と聞くので、「私がまた来るかもしれないですよ」と言ったら「じゃあ、そのときのために、また働きます」。それで、その後も半年以上ずっと働いてるらしいんです。
雨宮 そんなきっかけでよかったんだ。
向谷地 その後も毎日のように電話で話していたら、去年の秋くらいに、急に「俺、寂しいんだ」って言うんですよ。
雨宮 「寂しい」とか「つらい」というのを、無差別殺人とかランチに言い換えていたってことですね。
向谷地 そうそう。
雨宮 1日40分くらい話を聞いてあげれば、人は変わるってことなんですね。
向谷地 ただ傾聴するだけじゃだめなんです。対話、ダイアローグですね。一緒に考える。最近、「対話」というのがキーワードとしてあちこちで言われてます。精神医療の世界では、ここ4、5年くらいでオープンダイアローグの試みが世界的に広がりつつああります。
そういう大きな社会のうねりのようなものを感じますね。トランプ的な風潮に逆行するように、そういう動き、しかも草の根的なうねりが始まっている。たんなる批判を超えて、自分たちの足元からそれを乗り越える現実をつくりだし、発信していく。そういういちばん強力なムーブメントが始まっていると思うので、とても楽しみだなと思いますね。
お二人の〈対話〉はこの後もまだまだ続きます。ぜひ書籍版で続きをお楽しみください。おかげさまでたちまち3刷!朝日新聞にて本田由紀さんに書評いただきました。