造園業の課題とその歴史
造園業全体が衰退しつつあるらしい。
理由は簡単、庭がある家が減ってるから。
アパートやマンションが発達し、庭のある戸建ての家に住む人が減っているのだ。
庭付きの大きな家に住んでいる人は高齢化が激しく、庭を管理しきらずに手放したり、施設に入居することで空き家になったりする。個人宅の現場がどんどんなくなっているのだ。
以前書いた人手不足の記事(こちら)にも通ずる話だが、個人邸の現場が少なくなることで、庭そのものや造園というものに触れる機会が少なくなる。そうすると当然、造園業を将来の選択肢に含める若者は少なくなり、若手が入ってこなくなる。
職人さんの高齢化により本格的な日本庭園を手掛けられるような人材が減少し、その技術を継承する為の若手もいないのだ。
個人邸の庭を手がける機会がないなら、当然それ以外の仕事を行う必要が出てくる。
エクステリアや外構工事など庭に関わることから、解体工事なども請け負うっているところがあるという。
空き家の樹木の剪定・伐採なども請け負うことがあるので、解体工事が行えれば空き家の現場をまるまる担当することができるだろう。
弊社でも特殊伐採などを行い、林業に近い作業を行う現場が増えてきている。
できることの幅を広げる必要があるので、職人さんにも負担がかかる。
弊社では、協力業者を募ることで自社の職人さんへの負担を減らすことができているが、協力業者が常に入ってくれるとは限らないので多数の協力業者を確保しておく必要がある。
その一方で、木の剪定や伐採、除草など、庭周りの管理全般を請け負えるようになり、公共事業に於いては非常に重宝される。弊社でも公共事業の現場は多く、小学校の樹木の剪定や街路樹の剪定、道路の除草作業などを行っている。
こうした造園業の課題は、視点を変えて多種多様な現場を行うことで改善されつつあるが、その分人材の確保も難しくなってくる。必要な資格が増える一方で造園業を志す人間は減少傾向にあるのだから、なおさら難しい。
造園業自体に変化が起きているのだ。この変化にいかに対応するかが求められているのではないだろうか。
では今まで造園業はそこまで変化していなかったのか、と言われると、実はそうではない。
造園業は、職としては長い歴史があるが産業としては最近発展したものである。
造園業の礎、いわば「庭師」に近い職業は古くからある。日本においては、律令制度の中で「園池司」と呼ばれる組織が宮内にあったといわれているほどだ。庭を通し自然と共存するという形は古くから日本で必要とされてきた。
そんな職人たちが、共同体を作り、会社としての形をとることで産業として参入してきたのは戦後だ。それまで「植木屋」と呼ばれていたものたちは、正規の組織を作ることなく個人として活動していた。
戦後になって植木屋たちはGHQの指令のもと、様々な庭園の作成、管理を任された。戦前における造園工事は施工管理の必要なものではなく、いわゆる「学校出」の職人は殆どいなかった。造園に関する教育機関は微々たるもので、「学校出」の人間は大概官途についていくものが多かった。
しかし、戦後のGHQの指揮する工事は大掛かりなものが多く、ゼネコンとのタッグも多い為現場管理のできる「学校出」の者が必要になってきた。
そこで職人の集団は個人業から法人業に代わり、株式会社として造園業を設立、「学校出」の職人が就職先として選べるように造園業の会社を作ったのだった。そうすることで、現場管理を行えるような人材を置くことができるようになったのだという。
戦後で大きく変わった日本の姿とともに、造園の在り方も大きく変わったのだ。
こうしてみると建設業の一端、産業としての「造園業」自体の歴史はまだ新しいものではあるが、「造園」そのものの歴史は深く、長いのである。
こうした伝統的な職である「造園」が、また新しく姿を変えつつあるのが現代だろう。植物との共存は長い人類史において切り離せないものであり、環境保護の機運が高まっている昨今の現状を鑑みるに、これから先も一つのテーマとして長く続いていくものだと考える。
戦後の混乱から立ち上がる為に植木屋が造園業に姿を変えたように、現在の造園業も新しく変わるタイミングが迫ってきているのではないだろうか。
伝統ある職業である造園を、さらに長く残していくためには何が必要なのか。歴史を振り返りながら、今一度考えていく必要があるのかもしれない。
参考
「造園産業史概観」前田宗政(1994)
_pdf (jst.go.jp)