見出し画像

#3 「らしさ」の残骸

ああでもない、こうでもない——

思考は泡沫。朝キッチンに立ち、ぼんやりと浮かんでは消えていく、日常の思考エッセイの連載です。


「……その薬の飲み方、あなたらしいね」

ここ最近、久々に体調を崩し、病院でたくさん薬をもらった。抗生物質も出た。これで、せっせと育ててきた腸内のかわいい菌たちも、ごっそり消えてしまう。悲しいけれど、優先すべきは悪い菌の撲滅である。

食後にキッチンで薬を飲みながら、ふと、伊藤くんに言われたことを思い出した。


「……その薬の飲み方、あなたらしいね」と、彼は言ったのだった。


伊藤くんは物知りで腰が低く、歩く知性のような人だ。落としたら床に穴が空きそうなほど重い革ジャンを着ていた。親は警察官だった。

中学時代に同じ塾に通っていて、知り合ったのだ。当時はほとんど話したことはなかったけれど、どういうわけか社会人になってから連絡を取り合うようになり、いっとき、よく会っていた。

頭のいい高校に行って、頭のいい大学に行って、今も何かの研究をしていて、大学の先生みたいなことをしている。中学以来、久々に再会しても、彼の柔和で頭が切れる印象は変わらなかった。

ジェントルな雰囲気にも磨きがかかり、壊れたパソコンの修理方法から、新宿で明け方フラフラになった心身に優しい台湾料理屋まで、本当になんでも知っていた。

名前を聞いたことないような国の首都を尋ねても、泥沼の恋に溺れて抜け出せなくなった人がアドバイスを求めても、彼ならきっと、瞬時に答えてしまうだろう。困ったときの手札の枚数が未知数なのだ。



伊藤くんの好きなところは、どんな欠点も否定しないところだった。

「なるほど、そういう考え方、いいね」
「いや、悪いことだとは思わないよ、そういうところが “らしさ” じゃない?」
「そんな風に見たことなかったな、面白い視点だね」


彼には、マイナスを肯定的に捉え直す変換機能みたいなものがデフォルトで備わっていて、会うたびに自己肯定感を上げてくれた。 

あの持ち前の肯定機能があれば、きっと育児もうまくいくんだろうと、この歳になってしみじみ思う。子育て家庭にほしいよ、一家に一人、伊藤くん。




そんな伊藤くんに、一度だけ薬の飲み方を指摘されたことがある。昼間飲み忘れないように持ち歩いていた錠剤を、何かのタイミングで見られたのだろう。

「……その薬の飲み方、あなたらしいね」

そう言いながら、彼は錠剤をつまみ上げ、不思議そうに眺めていた。野生動物の習性を観察するかのような挙動である。そして「斬新だなぁ」と付け加えた。


え? 薬の飲み方って、個性とか出る?

パカっと錠剤を取り出して飲むしか、方法なくない……?

「一体、どんなところが、私らしいのでしょうか」

腑に落ちず、おずおず聞いてみると、彼は答えた。

「薬は、飲んだら捨てるでしょう? 普通。その、空になった部分は。」

なるほど、なるほど。

つまり、雑だとか、奔放とか、そんな類のことを彼は言いたかったんだと思う。褒めたわけではなく。

言われてみれば確かに、私の錠剤には、“残骸” が多く存在している。4錠入りで、残り1錠しかないのに、いつまでも金魚のフンのように、空っぽの部分がくっついている。

へぇ、ここってすぐ捨てるのか。
考えたこともなかったけれど、伊藤くんに指摘された途端、空っぽを保有し続ける無意味さと野暮ったさに嫌気がさした。

飲んでしまった部分は切り分けて捨ててしまった方が、クールだしスマートだ。なぜ今まで、気がつかなかったのだろう。

知性と習慣は細部に宿る。ぜひ私も、素敵な薬の飲み方をしてみたい。いや、しよう。今そう決めた。こんにちは、新しい私——!




——というのが、もう、15年以上も前の話だ。

今ではすっかり、クールでスマートに薬が飲めるようになった、と言いたいところだけれど、相変わらず私は、錠剤フィルムを残すスタイルから抜け出せていない。

何度かトライしてみたけれど、続かないのである。いつまで経っても「あと3錠くらいあると思ったら、いつの間にか最後の1錠だった」みたいなことになっている。

店長をしていた時代に、仕事で使った靴をそのまま鞄に突っ込んでいるのを年上のパートさんに見られて、「……店長、私結構いろいろ見逃してますけどね、それはさすがにダメ」と、しみじみ怒られたことがある。

今なら、靴を鞄に直接突っ込むことはしない(と思う)。人の目もあるし、私も大人になった。

でも、薬の飲み方は治らない。相変わらずキレイに飲むことに憧れてはいるけれど、もう治す気もない。


そういえば一度だけ、満点の星空を見に、伊藤くんが深夜の日光までバイクを飛ばしてくれたことがあった。星空の解説も、もちろん伊藤くんがしてくれた。

まだ夏に分類される時期だったのに、深夜の日光は凍えるように寒い。震えていると、伊藤くんはあの異常な重さの革ジャンをサッと差し出してくれた。

何かの答えを探るように、瞳の奥をじっと見つめる伊藤くんを、同じように見つめ返す。瞳の奥には、何も見えない。

革ジャンは重くて硬いばっかりで、体はちっとも温まらなかった。


===

食事を終えた夫が、食器を下げにキッチンに入ってくる。
ふと興味が湧いて、聞いてみた。

「薬ってさ、飲んだ部分はちゃんと捨てる? そのままにしてる?」

夫は、考えたこともない、という怪訝な表情を浮かべて、「……そのままかな」と答えた。


なるほど、なるほど。


残った薬を袋に戻しかけたとき、パキッと空の部分が割れる音がした。一瞬、捨てるチャンスだと思ったけれど、気にせずそのまま袋に戻す。

飲みきりタイプは、残り数錠。全部飲んだ最後の日には、管理袋ごとゴソっと捨てるのだ。その爽快感を、伊藤くんはきっと知らない。

伊藤くんが見つめていた「私」と、彼の瞳に映らなかった「私」は、相変わらず私であり続けている。今頃、伊藤くんのあらゆる性質も、形を変えながら、彼であり続けているのだろう。

元気にしているかな。今でもあの重い革ジャンを着ているだろうか。薬は相変わらず、残骸を許さずキレイに飲んでいるだろうか。いつか会うことがあったら、聞いてみたい。



【back number】
#1 プリンと、白湯と、修造と
#2 1. 0倍速の失恋


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?