食肉文化とイルカ漁問題

和歌山県太地町。
捕鯨で栄えた町であり、イルカ漁で非難されることも多い町です。
今回は、この件に関する記事です。


和歌山県の見解

イルカ漁や捕鯨に関して、和歌山県が公式の見解を示しています。

ざっくり内容をまとめると以下の通りです。
・イルカ漁は伝統文化であり、漁師の生活もかかっている。
・諸外国も先住民等が捕鯨を実施しており、太地町だけがバッシングを受けるのは理不尽。
・水族館は様々な役割を担っており、そこにはイルカ漁の需要が生じる。
・イルカには知性があるが、知性で命を選別するのも理にかなっていない。また、イルカだけでなく牛や豚も知性があり、イルカだけを特別扱いするのは不自然。

以下、それぞれに対する個人の見解です。


文化と生活

悪習・奇習も存在するので、全ての文化を肯定することは出来ないでしょう。ただ、文化を廃止するにしても、「こんな文化が存在した」という事実は、歴史や教訓として伝える意義はあるでしょう。過去から学ぶことも多いです。

また、漁師の生活もかかっているので、イルカ漁を止めるのであれば、代わりの仕事や収入源を保障する必要があります。「イルカ漁を止めろ」と言っておいて、「代わりの仕事・収入源は自分でなんとかしろ」という話では、流石に無責任です。どれだけ漁師に憎悪を抱いているか知りませんが、間違いなく反発されるでしょう。


諸外国との比較

「他の国がやっているから自分達もやって良い」というのであれば、それは問題があるでしょう。イルカ漁や捕鯨の善悪に関係なく、極端な話、世の中には善人ばかりで無く、他者を理不尽に傷つけても平気なクズも山程いるので、「一部の悪人がやっているから、自分も悪い事を犯しても良い」ということになってしまいます。

ただ、「他の国もやっているのに、自分達だけバッシングを受けるのは理不尽」というのも分かります。同じ罪を犯しても、ある者は裁かれ、ある者は裁かれない。こういうのを「特別扱い」や「選り好み」と言うのです。

ケースバイケースな側面も存在しますが、「バッシングするなら他の国も叩け。他の国を叩かないなら、我々もバッシングするな。」という論理は、ある程度は納得出来るでしょう。


水族館とイルカ

イルカ漁で捕えられたイルカは、食用以外にも、水族館に引き渡される場合も存在します。鯨類の飼育の難しさ(体の大きさ、賢さ、行動範囲の広さ、群れで暮らす習性等)も相まって、水族館がイルカ漁と関連づけて非難される場合もあります。

ただ、イルカ漁によってイルカを入手せず、飼育個体の繁殖によってイルカを確保する動きもあります。また、イルカに限定せず、動物園や水族館は様々な役割を担っています。例えば、絶滅危惧種の繁殖や、怪我している個体の保護等の取り組みを通して「種の保存」という役割を担っています。

加えて、種類によっては野生復帰の取り組みも存在しますが、自然界では生存競争が厳しく、飼育個体が生きていくには、相当な訓練が必要です。さらに、その取り組みを担うのも動物園や水族館です。

以上のことから、水族館の全てを否定する行為は、短絡的と言えるでしょう。

ただ、動物園や水族館が問題を抱えているのも事実ですし、施設によって状況は異なるので、臨機応変な対応は必要になります。しかし、動物福祉への配慮等が進んでいる施設も少なくないので、動物園や水族館を画一的に否定するのは筋が違います。これもケースバイケースです。

(以前、水族館に関して以下の記事を書きました。参考までに。)


イルカだけ特別扱いするのは不自然

この部分に関しては、概ね納得出来ます。動物の知性の高さに差は存在しますし、その点は考慮する必要がありますが、イルカだけを特別扱いするのは不自然でしょう。だからヴィーガンは全ての動物を搾取するのを否定します。

もし「知性のある人間が、知性がある動物を殺すことに問題がある」という主張であれば、「知性が低い者なら動物を殺しても良い」や「知性が低い動物は殺しても良い」等と理解されかねません。障害者施設が襲撃されて利用者が殺害された事件がありましたが、その犯人は「意思疎通の出来ない障害者に生きる価値は無い」的なことを言っていました。「知性が低い動物は殺しても良い」という理論なら、この犯人と同様の扱いを受けるでしょう。

ただ、動物の命を奪うことで世界が成り立っている側面は否めません。自然界では、「食べるー食べられる」という食物連鎖の関係性が存在し、それによって個体数の調和が保たれています。この調和が崩壊すると、生態系や自然界そのものも崩壊します。食物連鎖を崩壊させるなら、自然界において、肉食動物の狩りを防止し、動物達の繁殖や個体数の増減を管理する必要があります。そこまで出来るのですか?

別にヴィーガンを否定する気はありませんし、「減らせる犠牲は減らす」という姿勢は否定しません。ただ、完全に犠牲をゼロにすることは出来ません。そのことは理解しておきましょう。


捕鯨反対団体の見解

捕鯨に反対する団体の中には、現地で妨害活動を行なうもの、インターネットで非難するもの等、様々います。

各々、どんな感じ方をしているかは知ったこっちゃありませんが、暴力的な手段を用いて、一方的に主張を押し付ける過激な行為は、理不尽に他者に危害を与えることになります。テロリストと大差はありません。たとえ相手が悪いと感じていても、それらを攻撃することで、自分も「相手とは別の悪」になります。そのことは自覚しましょう。

今回の件でも、対面・ネットを問わず、暴力的で過激な批判活動が実施されています。そのような者は、もはや「動物愛護」の域を超えています。怒りを関連施設にぶつけているだけであり、「産業の否定」です。

そのようなテロリストには、モラルやマナー、常識や知性が欠如しています。それらが欠如しているから、物事を偏った側面でしか捉えられず、過激で暴力的な手段に出ても、罪悪感すら感じないのかもしれません。


捕鯨反対派の例

以下、捕鯨に反対する団体の一例です。
この団体が、先述の過激で暴力的なテロリストかは知りません。
記事を見る限り、実際に捕鯨の妨害を実施している様子は見られませんでしたが、インターネットでの主張はしています。

この記事は、イルカ漁の様子が詳細に記されており、現実を知るうえでは役立つでしょう。ただ、この団体は、食べられる動物を「遺体」と擬人化して表現したり、動物飼育を「監禁」と表現したりする等、かなりヴィーガニズムに偏った意見である印象です。

動物園や水族館に関しても、それぞれの施設ごとに、かなり否定的なコメントをしています。それらの施設から「名誉毀損」「誹謗中傷」で訴えられても文句は言えないでしょう。

「批判」「非難」「誹謗中傷」はイコールでは無いものの、すぐに変化します。批判が誹謗中傷に変化する場合は多々ありますし、最悪の場合、人の命を奪いかねません。批判するのであれば、そのことは肝に銘じておきましょう。

ただ、批判(というより助言)が議論の活発化に繋がる場合もありますし、出てきた問題点を解決していくことで、今後の発展に繋がる場合もあります。動物利用や動物飼育において、問題点が存在するのも事実でしょう。あくまでも、それらの批判は「これから改善していくべき課題」として捉えておきましょう。


まとめ

捕鯨賛成派と反対派の双方の主張を見ましたが、所感としては、どちらも「自分達の行為の正当化」「相手の主張の否定」をメインに考えている印象でした。双方の立場もあるのでしょうが、どっちもどっちな感じです。

私としては、あくまで中立の立場です。動物福祉の観点上、イルカ漁に問題があるのも事実ですが、イルカ漁を止めるためには、多くの課題をクリアする必要があります。食肉に関しても、すぐに無くすことは不可能でしょう。動物園や水族館を否定する気は微塵もありませんし、暴力的な誹謗中傷なんて論外です。私も動物園や水族館くらい行きます。

ただ、イルカ漁反対派の主張から、問題点を洗い出し、それらを改善していくこと自体は必要でしょう。

まだまだ議論の余地がありそうですが、とりあえず、過激で暴力的な手段に出るのは止めましょう。

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