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刺し子について

「ものを大切にする」という心が生んだ、日本の伝統工芸「刺し子」。日々の暮らしの中で育まれた手仕事である「刺し子」が、「作る人」と「使う人」の垣根を超えて、人と人を結びなおす。私たちは、「刺し子」のそんな可能性を信じています。

刺し子について

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「刺し子」は、布地にひと針、ひと針、模様を刺す、日本中で親しまれている昔ながらの手芸です。一枚もしくは数枚の布を重ね合わせ、綴り縫い、刺し縫いする技法のこと、また、そのように刺したもののことを「刺し子」と呼びます。

最近では、刺繍の用途として用いられることも多く、カラフルな布や糸を使って、「刺し子」を楽しむ人が増えています。

刺し子の歴史

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刺し子の歴史は、日本で綿が普及しはじめた、今から500年ほど前、江戸時代中期にさかのぼります。とくに、東北地方などの寒い地域は、綿の栽培に適さず、綿製品が貴重品としてあつかわれました。そんな貴重な綿製品を最後まで大切に使うため、「刺し子」という人々の知恵から生まれた技法が発達し、受け継がれてきました。

それが時代の流れの中で形を変え、糸目を重ねて美しい模様を描き出す、刺し子へと変化をしてきました。藍色の布に白糸で線を描くように刺繍する刺し子が定番で、その素朴な美しさが目を引きます。

寒さをしのいだり、布が擦り切れてることを防ぐという、繕うことを目的にはじまった刺し子ですが、刺し子の絵柄に「願い」を込めるという意味合いももつようになりました。

例えば、「麻の葉」と呼ばれる柄には、成長が早く、丈夫な麻にちなんで、「すくすく育つ」という願いを込め、子どもの産着や上着に「背守り」を刺すこともありました。

他にも、「米刺し」や「柿の葉」といった柄には五穀豊穣、「七宝」は円満など、生活のさまざまな場面における「願い」が込められていました。

こうして生活の知恵として発達した刺し子ですが、時代の流れとともに、既成服が流通し、簡単に購入できるようになると、わざわざ手間のかかる「刺し子」をする必要性がなくなり、昭和30年代を境に、実用性の面からは姿を消していきました。

日本の三大刺し子

日本三大刺し子と呼ばれる「刺し子」はいずれも東北地方にあります。山形県庄内地方の「庄内刺し子」、青森県津軽の「こぎん刺し」、青森県南部の「南部菱刺し」です。

それぞれの土地の風土に合った独自の刺し子として発展していますが、特に「こぎん刺し」と「南部菱刺し」には麻布が用いられ、織布の織り目を数えながら刺して、模様を作り出していくという技法は、「ぐし縫い」と言って、表裏を等間隔で刺していく他の刺し子とは一線を画しています。

このように技法の違いはありますが、どれも東北の厳しい寒さをしのぐため、貴重な布を大切に、長く使うための知恵として発達してきました。

また、刺し子は東北だけでなく、南関東、飛騨高山、九州地方などでも用いられていました。

刺し子の花ふきん

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全面に、ひと針、ひと針、刺し子をした布巾のことを「花ふきん」といいます。

秋田をはじめ、日本各地に「花ふきん」という風習があったそうです。

母が嫁ぐ娘のために、木綿の布巾に、縁起の良い伝統模様を刺し子で施し、嫁入り道具としてもたせたそうです。婚家の家の門をくぐったら、二度と戻れないといわれていた時代。母が思いの丈を針仕事に込めて、娘に伝えていたのです。

もともと収入を得るための仕事ではなく、母が大切な家族のことを思い、施した手仕事である刺し子は、このように日々の生活の中で大切な人の幸せを願う思いとともに発展してきました。そして、母から子へと、世代を超えて伝えられてきたのです。


寒さから身を守り、長く使えるように施された刺し子は、家族のことを想っておこなわれた針仕事でした。わたしたちは「刺し子」を通して、そんな相手を想い、手をかけてつくる手仕事の価値を伝えています。


<参考> 

近藤陽絽子(2015)『嫁入り道具の花ふきん教室 母から子へ伝えられた針仕事』暮しの手帖定義。

杉野公子(2008)「刺し子 ー変化する伝統ー」『杉野服飾大学・杉野服飾大学短期大学部紀要』7. 1-14頁。


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