義務的な何か
最近長文を書けません。色々な作業に追われている、フリをしてほとんど寝ていると同じ感じです。
そもそも、noteをはじめた理由は、日頃の独り言、というか独り脳内スピーチを文章化する、そして何かしらの継続というものに挑んでみる、というテーマであり、要するに特段の理由は無いわけですが、考えている時間はあっても、それを綴るに至らないことが多い事もわかってきました。
合間の時間に書き起こしたりしていた時もありますが、やはりまとまった時間で書く方が楽というか、やっている感もでるし、合間の時間に書くことを忘れている次第であります。
ある程度の文字数でなければ、たしか140字くらい書ける、Twitterでいい気もするし、本当は出来るだけ多く文章にしたほうが、noteというプラットフォームに沿った媒体になり得ると思います。
そうしたいのもやまやまですが、ここ数日間は至りません。
新しい情報や、ネタのようなものに触れていないわけではありません。寧ろ今入ってくる情報が偏っていたり、多すぎて処理に困っている程で、そのせいでこの作業に脳を割けないでいる気もします。
たしかに本を読む機会は、うんと減りました。昔、十数年前くらいは、よく本を読んでいて、そのほとんどは小説でしたが、所謂哲学書だったり学問書も読んでいました。週に2冊くらいは、コンスタントに読んでいたんじゃないかと、曖昧に記憶しています。
今でも本は好きなんですが、インターネットを介して、動画や記事に目を通すことが年々多くなり、物理的な時間が減っているので、本を手に取ることが少なくなりました。
これは世の中の流れ的にも、個人的な趣向としても、自然な運びであると考えていますが、同時に寂しさも覚えます。
ただ、だからといって、恣意的に本を読むとか、そういうことはしたくない、変なプライドというか、読書という時間を義務寄りにしたくない抵抗感があります。そうなると本当に楽しんでいるのか、欲に駆られて文章にフォーカスしているのかわからなくなる気もします。
きっと、義務のように、まるでそれが正義だからだ、という性善説に沿うように、本を読んでいる人もいるかと思います。僕にはそれができません。本が好きだった、今でも好きではありますが、没頭している自分に酔うこともできないし、赴くままに行動する精神から遠ざかるので、僕にはできないのです。
ここまで考えても、敢えて時間を作ろうとか、スケジュールして本を手に取る気には、これっぽっちもなりません。
そうこうしているうちに、継続というリミットが近づいています。
果たしてこれは、義務的に読書をすることと、何か違うのでしょうか。
考えてしまうと1年もしない内に挫折してしまいそうなので、考えずに、ただ継続に努めたいと思います。
そこに飯があるから、食べに行く。
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