花屋のお母さん
昨日の誕生日に母親から1通の手紙が届いた。
そこには「てぃーちなー、てぃーちなー。ひとつずつ、ひとつずつ。1歩1歩。小さな幸せを積み重ねるように。ひとつずつ、ひとつずつ、、、です」と書かれていた。
沖縄出身ではないけれど沖縄が好きなお母さん。
SMAPの中居くんが大好きなお母さん。
お酒が好きなお母さん。
イベントが大好きなお母さん。
料理が上手なお母さん。
いろんなお母さんの姿を思い浮かべることが出来るけど、一番思い浮かぶのは花屋のお母さんの姿だ。
中学生の頃はよく、6キロ離れたお店まで体力作りの一環で走って行って、帰りはお母さんの車で帰っていた。
そんな時に目にするのが、お客さんと楽しそうに話しながら花束を作るお母さんの姿。
決して大きな店ではなかったけれど、そこで働くお母さんは輝いて見えた。
今はお店を退職して事務仕事をしているけれど、たまに友人や昔のお客さんに頼まれてブーケを作ったりアレンジメントを作っていて、完成した後にはいつも写真を送ってくる。
§
僕の家は母子家庭で、父親は小学4年生の頃にいなくなった。
僕も父親のことは嫌いだったと思う。
”思う”と言ったのは、父親との思い出がないからだ。
唯一の思い出は正座させられて長時間怒られたこと。
それ以外は本当に覚えていない。
写真を見返してみると、父親に抱っこをされている写真もあるから幸せな瞬間はあったのだろうけど、僕の記憶に一切残ってはいない、、。
父親の話はどうでもいいんだ。
父親がいなくなってからの生活は、これといって変わりはなかった。
いや、むしろ快適すぎて何不自由ない生活だった。
中学校でテニスを始め、映えある結果は出せていなかったが、ラケットを4本も買ってもらった。
塾に行かせてもらい、志望していた公立高校に進学することもできたし、体力錬成の一環でボクシングにも通わせてもらった。
それに加えて、高卒ですぐに消防士になりたいと言った時には、高校に通いながら東京アカデミーにも通学させてもらった。
姉も部活の吹奏楽でアメリカ合宿に行ったり、遠征に何度も行ったりと、相当お金がかかっていたと思う。
当時は当たり前に考えていたけれど、大人になった今考えてみると、どうやって生計を立てていたのか不思議に思うくらい、やりたいことをさせてもらっていた。
一体どれくらい身体を酷使していたのだろう。
一体どれくらい不安を感じていたのだろう。
そんなことを思わせないくらい、家では明るくいつも笑顔で振る舞っていた。
そんな母親の涙を見たのは、僕が消防士を辞めると言った日だ。
「もう続けられない。辞めようと思っている。」と僕が言った瞬間に、母親の目から涙が零れた。
「私も消防士の夢を叶えるためにたくさん努力してきた。そんなに簡単に言わないで。」
その言葉と母親の涙を見た時に、普段は絶対に泣かない僕も自然と涙をこぼしていた。
消防学校で表彰された時には僕以上に喜んだり、救助大会の選手に選ばれた新聞を切り取って保存したり、消防車のおもちゃを部屋に飾ったり、、、。
僕以上に僕が消防士になることを喜んでいた。
その涙には色々な思いが込められていたんだと思う。
そりゃそうだ。
僕が消防士になるためにどれだけの苦労をしたのだろう。
今考えてみても、想像できないほどの苦労を重ねていただろう、、。
それでも最後には「後悔がないように生きて欲しい」と、僕が看護師になることを応援してくれた。
今では僕が載っている学校のホームページを何度も見返しているらしい。
母親に支えられていたことに気付かないで、自由に生きてきた僕も今年結婚する。
相手は、いつも僕よりも母親と喋っている彼女。
彼女と母親はいつも仲が良い。
母親は僕が実家に帰るたびに「彼女を泣かせたら私は彼女の味方だから」と笑顔で言ってくる。
そんなことを言いながらも、たまに美味しいお肉やフルーツを送ってきては電話をかけてくる母親。
「就職したら旅行に連れっていってもらわないといけないからね」と笑いながら言ってくる。
でもきっと、旅行に行こうと言ったら「彼女と行ってきなさい」って言われるんだろうな。
いつまで経っても敵いそうにない。
でもこれからは僕がお母さんを陰ながら支えていくよ。
お母さんが僕にしてくれたみたいに。
あの頃に見た、花屋のお母さんでいられるように。
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