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『婚姻FA』第二話

午後三時を過ぎた執務室。葛西は端末に映る数字の羅列から、何も読み取れなくなっていた。モニターに映る自分の顔が、妙に落ち着かない表情をしている。

「葛西さん、これでよろしいですか?」
後輩の声に飛び上がりそうになる。
「ああ、ごめん。ちょっと確認させて」

目を凝らして資料を見直す。いつもなら簡単に気付くはずの転記ミスを、今日は三度も見落としていた。

四時。
定時まであと一時間。しかし今日は早めに切り上げる。
理由は、いつもと同じ。

「お先に失礼します」
「お疲れさまです」

何気ない挨拶の応酬。日常の一コマ。でも今日は違う。今日の自分は、その日常に大きな亀裂を入れようとしている。

高層ビル群の谷間を歩く。春の陽気が心地よい。けれど、背中は冷や汗でじっとりと濡れていた。

エレベーターホール。35階のボタンを押す指が震える。上昇する密室の中で、葛西は深いため息をつく。携帯を取り出し、午前中に保存したシミュレーション結果を再度確認する。数字を見つめる目は、不安と決意が混じり合っている。

ディングという音と共にドアが開く。35階、最上階のカフェラウンジだ。

「いらっしゃいませ」

いつものスタッフの笑顔。いつもの窓際の席。いつもと同じ風景なのに、今日は全てが違って見える。

「コーヒーをお願いします」

注文を告げる声が、上ずっているような気がした。時計を確認する。まだ二十分ある。井上との待ち合わせまでは。

窓の外を見る。夕暮れ近い空が、オフィス街の上で茜色に染まりはじめていた。同じ景色を、これまで何度見ただろう。仕事帰りの何気ない会話。業界の噂話。時には真剣な相談事。すべてが自然な流れだった。

週に一度とも言えない。でも確実に、二人の関係は深まっていた。

「お待たせしました」

振り返ると、井上が立っていた。いつもの清楚なスーツ姿。ただし、表情がどこか違う。

「こんな急に、すみません」
「いいえ、私からも話があったので」

席に着きながら、井上が小さく息を吐く。

「部長職の打診があったんです」

思いがけない言葉に、葛西は手にしたカップを置き損ねそうになる。

「組織改編の一環で、新設される部署の責任者として」
「それは、おめでとう」
「ありがとうございます」

井上の笑顔には、どこか困惑が混じっているように見えた。夕陽が横顔を優しく照らしている。

「実は先週から話が進んでいて。新規事業推進室っていう部署なんです」
「ああ、噂には聞いてた」
「IoTソリューション関連の」
「大きなプロジェクトだ」

井上は視線を落とし、カップに手を伸ばす。

「でも、まだ迷っているんです」
「迷う?」
「ええ。正直に言うと、女性管理職の登用を進めたい本部長の意向もあって」
井上の声が小さくなる。
「実力以上の評価をいただいているような...」

「そんなことない。井上さんなら」
葛西の言葉に、井上は小さく首を振った。

「優秀なのは同期にもたくさんいます。実績で言えば、森田さんの方が」
「森田は、結婚退職するって」
「えっ?」
「この前、飲み会で話してた。式は秋らしい」

井上の表情が、複雑に歪む。

「そうですか...」
深いため息。
「正直、プレッシャーです。でも」
言葉を選ぶように間を置く。
「チャンスでもある。これを逃したら、次はいつになるか」

その言葉に、葛西は喉が詰まりそうになった。これを逃したら、次はいつになるか。同じフレーズが、彼の中でも回っていた。

テーブルの上のスマートフォンが、微かに光る。午前中に起動したアプリからの通知。
「シミュレーション結果を保存しました」

「葛西さん?」

井上の声で我に返る。窓の外では、オフィス街の明かりが、一つ、また一つと灯り始めていた。

「ごめん。少し考え事を」
「珍しいですね。いつもはもっと話を聞いてくれるのに」

その言葉に、罪悪感が込み上げてくる。これまで何度も、井上の相談に乗ってきた。仕事の悩み、将来への不安。どれも真摯に向き合ってきたはずだ。

でも今日は違う。今日の自分は、相談者ではない。

執務室で見た自分の落ち着かない表情が、頭をよぎる。

「実は、私からも話があって」

葛西の声が、いつもより低く響く。外の景色は、すっかり夜のグラデーションに染まっていた。

「制度のことは、ご存知ですか?」

「制度...?」
井上の表情が、わずかに強張る。
「まさか、FA...」

葛西は無言で頷いた。

カフェの喧騒が、妙に遠くに感じられた。


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